毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活の聖なる徹夜祭

20150404

ローマで衝動買いした朗読福音書のカヴァーです。
(日本では手に入らないので・・・)
今日の復活徹夜祭で東京カテドラルにデビューしました。

というわけで、復活徹夜祭の説教です。

●復活の主日 復活徹夜祭
 2015.4.4関口カテドラル
 
 旧約  出エジプト14・15〜15・1a ほか
 使徒書 ローマ6・3-11     
 福音  マルコ16・1-7

 ホミリア
 主イエスのご復活おめでとうございます。わたしたちはこの祝いを、十字架で死んだイエスが三日目に復活したという2000年も前の出来事としてだけ祝うのではありません。復活したイエスが今も生きていて、わたしたちとともにいてくださることを祝うのです。フランシスコ教皇の使徒的勧告『福音の喜び』の中に、こういう言葉があります。
 「イエス・キリストはあなたを愛し、あなたの救いのためにいのちをささげられました。キリストは今も生きておられ、日々あなたのそばであなたを照らし、力づけ、解放してくださいます」(EG164)
 これがわたしたちの信仰の核心です。
 どこでそのイエスに出会うことができるか、どこでその出会いを感じることができるでしょうか。関口カテドラルでしょうか? ローマの聖ペトロ大聖堂でしょうか?
 実は、日本の司教16人で3月にローマを公式訪問しました。アドリミナと呼ばれるこの訪問中、司教団全員でフランシスコ教皇とお会いして、一時間以上話し合うことができました(司教の特権ですね、申し訳ありません)。教皇はわたしたちの話に耳を傾けてくれて、わたしたちの悩みや努力に共感してくださいました。わたしたちはとても励まされました。でも教皇庁のいろいろな部署に行くとそこではがっかりするような対応もありました。バチカンが世界中の教会を指導してやるのだ、そんな権威的な態度が強いままのところもあります。教皇庁改革を目指す教皇の苦労が思いやられました。まあとにかくローマに行ってもイエスには会えないかな・・・。

 どこで復活したイエスに出会うことができるか、先ほど読まれたマルコ福音書の言葉は大切なヒントを示していると思います。
 「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」
 ガリラヤで会える。ガリラヤとは何でしょうか。4つのことが思い浮かびました。
 まず第1。弟子たちにとってガリラヤはイエスと最初に出会った場でした。イエスによって希望と光を与えられた、その出会いの場所でした。最初の出会いの体験に戻っていきなさい。その体験は決して古びることなく、今も生きているはずだ、ガリラヤで会うとは、そういう意味にもとれます。わたしたちの中にもそのようなイエスとの最初の出会いの思い出があるでしょうか。その思い出は大切にしたい。
 個人的な出会いの記憶も大切ですが、多くの人に共通の出会いの記憶も大切です。共通の出会いの記憶とは、聖書、特に福音書に記されている出会いのことです。マルコ福音書のイエスの活動はまさに「ガリラヤ」から始まりました。
 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(1・14,15)ガリラヤでさまざまな人がイエスに出会った、その記録がマルコ福音書にあります。「ガリラヤで出会う」とは、福音書の1ページ目からもう一度読み返しなさい、そうすればイエスに会える、ということではないでしょうか。これも大切なことです。今日は洗礼式があります。洗礼を受ける皆さんには特に言いたいです。聖書を、特に福音書を何度も繰り返し読んでください。ミサの聖書朗読配分はきっと役に立ちます。福音書をとおしてわたしたちは生きておられるイエスとの出会いを深めることができます。これが2つ目の点。
 第3の点。ガリラヤとは、イエスと弟子たちにとってはもともとの生活の場でした。泣いたり笑ったり、いいことがあったり悪いことがあったり、という普通の生活の場でした。わたしたちにとっても本当にイエスに出会う場は、自分の生活、自分の人生の中です。その中で復活のイエスはわたしたちと共にいて、わたしたちを支え、導いてくださいます。聖書を読んで聖書の中でイエスに出会うのではありません。むしろ聖書を読み、祈っていくときに、日々の生活の中にイエスがともにいてくださることに気づかされるのです。その面で聖書とともに日々の祈りも大切です。今日洗礼を受ける方はこれからの信者としての歩みの中で、聖書と祈りをずっと大切にしてください。
 第4の点。ガリラヤはエルサレムから見れば辺境の地でした。「異邦人のガリラヤ」とさげすまれていた土地でした。ふだん見過ごしてしまっているようなところに目を向ける、ということもイエスとの出会いにとって大切です。特に貧しい人、苦しんでいる人、孤立している人、その人々に近づいていくとき、イエスに出会うことができる。「わたしの兄弟であるこの最も小さい人の1人にしたのはわたしにしてくれたこと」マタイ25章のこのイエスの言葉はそのことをはっきりと示しています。

 最後にもう1つだけ洗礼を受ける方々に言いたいことがあります。今日の福音の箇所でお墓に行った女性の弟子たちは1人だけではありませんでした。ガリラヤに行って、イエスに出会った弟子たちも1人きりではありませんでした。わたしたちが復活したイエスに気づくのもたぶん1人きりのときではありません。だれかと一緒に「そうだ、やはりキリストは生きていて、今もともにいてくださるよね」、そう言い合える信仰の仲間を見つけてください。わたしたちはたった1人で信仰の道を歩んでいくことはできません。信仰の仲間を見つけ、そのつながりを大切にして歩んでいってください。
 今日洗礼を受ける皆さんの人生が、聖書と祈りとさまざまな人との出会いに支えられますように、そして目に見えないけれど今も生きておられる復活の主イエスがともにいてくださる人生となりますように、心からお祈りしています。アーメン。



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