毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

吉祥寺教会堅信式ミサ

20150614

久しぶりの説教掲載です。
堅信の秘跡を受けた皆さんの記念になればと思っています。
(写真は吉祥寺教会の聖マリア像です)

●年間第11主日(マルコ4章26-34節)
                2015.06.14カトリック吉祥寺教会にて
【福音箇所】
 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

【ホミリア】
 このミサの中で堅信の秘跡が授けられます。堅信を受ける前に、洗礼のときの約束を更新していただきますが、今日、そこで唱える信仰宣言の中には、いつもの信仰宣言と違う特別な表現があります。
 「五十日祭の日、十二使徒に与えられた聖霊、今日同じように、堅信の秘跡によってあなたがたに与えられる神のいぶき、いのちの与え主である聖霊を信じますか」
 ここには、堅信の秘跡が、五十日祭(五旬祭=ペンテコステ=聖霊降臨)の出来事にあずかる秘跡だということがはっきりと表されています。堅信の秘跡はただ単に聖霊を与える秘跡というのではなく、ペンテコステの日に、使徒たちに与えられた聖霊が皆さんに与えられるのです。
 ペンテコステには、2つの大切な意味があります。

 1つはイエスの弟子たちが福音を告げる活動を始めた日。すなわち教会のミッションが始まった日という意味です。イエスの受難を前に逃げ出した、本当に弱かった弟子たちが、イエスの使徒として歩み始めるにあたって、聖霊という神の力が注がれ、弟子たちを強めました。堅信の秘跡は、ペンテコステの弟子たちと同じように、それを受ける人が聖霊によって強められ、教会のミッションに参加する者となることを表す秘跡です。皆さんは神のいつくしみの証人となる。それは言葉だけのことではありません。むしろまず生活のあかしが大切です。わたしたちは家庭で、学校で、社会で誠実に生きることをとおして、日々の生活の中で愛を生きることをとおして、神のいつくしみのしるしになることができます。生き方と言葉をもって神のいつくしみのあかし人になること、これがペンテコステにあずかる第一の意味です。

 もう1つ、ペンテコステの出来事の特徴は、使徒たちの言葉が、世界各地から集まった言語の違う人々に通じたということです。創世記のバベルの塔の物語によれば、人間が傲慢になって、天まで届く塔を作ろうとした結果、人間同士の言葉が通じ合わなくなった、コミュニケーションができなくなってしまった、ということです。ペンテコステはその反対の動きが始まった日です。この日から、人と人とはもう一度、愛と信頼によって結ばれる道を歩み始めた、これがペンテコステの偉大な神秘です。わたしたちはこのペンテコステの神秘を生きるように招かれています。
 堅信の秘跡を受ける人は、少しでも、人と人が相互に理解し合い、尊重し合えるように働く使命を与えられるのです。どうでしょう?大丈夫ですか?

 目に映る現実を見ていたら絶望的になるかもしれません。対話ではなく、相手を黙らせるために使われるような暴力的な言葉がこの世にはあふれています。イスラム原理主義勢力や敵対する国家とはおよそ対話などできないと感じることもあります。人と人とのつながりが希薄になり、人がどんどん孤立して行くようにも感じられます。まるでペンテコステの正反対のような現実ばかりが目につくかもしれません。
 自分自身のことを見ても、およそ神のいつくしみのしるしになるなんて不可能に思えます。自分の中に、愛が足りないところがあり、エゴイズムがある。そんな自分は神の愛のあかし人にまったくなれていない。

 でもだからこそ、今日のイエスの神の国のたとえ話を大切にしたいと思います。
 今日のたとえ話は当たり前みたいな話です。種が自然に成長する、からし種は最初は小さいけれど、成長すると大きくなる。ほんとに当たり前みたいな話ですね。イエスはなぜこのたとえを語ったのでしょうか。イエスは自分の周りで起こっていたことを、「これは神の国の種なんだ」とおっしゃりたいのではないでしょうか。「神の国の到来」というのがイエスのメッセージでした。でもイエスの周りに集まってきたのは、貧しい人や無学な人、病人ばかり。神の国ために戦う戦力になりそうな人はほとんどいないのです。しかし、イエスはこれは「種」だと言うのです。種が本物であり、生きていれば必ず大きく成長して行く。

 イエスのこのたとえ話は、わたしたちが現実を見る目を変えてくれます。
 こんなちっぽけなんじゃダメだ、何の訳にも立たない、とあきらめてしまうか、それとも、これは種なんだ、この種を大切に育てて行けばいいんだ、と見るか、大違いです。
 わたしたち一人一人の中に、信仰が、希望が、愛があります。どんなに小さくてもあります。この世界の中にも、信頼が、希望が、愛があります。本当に目に見えないほど小さいかもしれませんが、それはあります。
 その小さな種を見つけていきたい。本当に大切な種を育てていきたい。
 いつかそれは豊かな実りを結ぶのです。成長させてくださるのは神です。その神への信頼を持って、今日堅信の秘跡を受ける皆さんが力強く歩むことができますよう願いながら、堅信の儀を行いたいと思います。

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