毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

マザーテレサ記念日のミサ

20150905

きょう9月5日はマザーテレサの命日で、多くの国では「コルカタの福者テレサ」の記念日として教会カレンダーに載っています。残念ながら日本のカトリック教会のカレンダーには載っていないのですが、足立区にある神の愛の宣教者会の修道院ではおおぜいのボランティア、病者、貧しい人が集まって、マザーテレサの祝日のミサをささげました。
(写真は2階のチャペルの黒板です)

●コルカタの福者テレサ(1910-1997)記念ミサのホミリア
 (雅歌8・6-7 マタイ25・1-13)
                   2015.9.5神の愛の宣教者会(足立)

 今週の日曜日8月30日、コンスタン・ルイ神父が亡くなられました。日本で60年間働かれたパリミッションの司祭です。昨年、志村教会の主任司祭を引退され、ベタニアのシスターの修道院で生活していらっしゃいましたが、そこでお世話するのが難しくなり、今年の5月27日、フランスに帰られました。それからわずか3ヶ月、88歳でした。特に貧しい人のために自分のすべてを与え尽くした司祭としてわたしはとても尊敬していました。個人的にも親しくさせていただいていたので、いろいろな思いがありますが、今特に感じているのは、本当に司祭として、宣教師として生涯をまっとうされたということです。

 マザーテレサが初めて日本に来たのは1981年のことで、マザーはすぐに神の愛の宣教者会のシスターたちを日本に派遣することを決めました。最初にシスターたちが住むことになったのは、江東区潮見の蟻の町、旧ありんこ保育園の建物でした。そこで未婚の母と子どもたちのホームを始めましたが、その時の潮見教会の主任司祭がルイ神父さんでした。ルイ神父さんはシスターたちを喜んで迎え入れました。
 そのルイ神父さんの説教集が先日できあがってわたしの元に送られてきました。フランスのルイ神父さんにも速達で送ったそうですが、亡くなる前に手にすることができたでしょうか? その中にマザーテレサのこんなエピソードが紹介されています(『ブルターニュの貂』教友社)。

 「マザーは修道生活を志願して訪ねてくる若い女性に向かって、こう言っていたそうです。
 『シスターになりたいかどうかということを、あなたに聞きたくはありません。あなたは神さまの愛を感じたかどうか、その神さまの愛の呼びかけに従うためにここに来たのかどうかを聞きたいのです。修道生活あるいは信仰生活は、一時的な憧れやかっこよさだけでは成り立ちません。神さまの愛に基づいていなければなりません。まず、自分自身が神さまに愛され、大切にされている体験から始まります。自分自身も隣の人も、すべての人が、同じ神さまの愛に包み込まれていることを体験し、理解した上で、一人でも多くの人がもっとその愛を理解し、受け入れてもらいたいからです。』」

 わたしたちの生き方の根本にあるのは、神の愛です。わたしたちは皆、大きな神の愛に包まれているから、ここに存在しています。だからわたしたちは互いにどんな人であれ、すべての人を神の愛された人として尊重し合わなければならないのです。神を信じる者にとってこれは当たり前のことです。しかし、現代ではこのことを感じることが難しくなっています。人間の力が大きくなりすぎたのでしょうか? 神さまに先に愛されているというよりも、とにかく自分の能力と努力ですべてを成し遂げなければならない、そうして必死に勝つか負けるかの競争しているようなところがあります。豊かな人と貧しい人の間の格差が広がってしまい、人生は勝ちか負けか、そんなものになってしまっているのではないでしょうか。うまく行かなければそれは自己責任だということになります。そんな中で追いつめられている人がどれほどたくさんいるでしょうか? マザーテレサの有名な言葉に「現代の最大の病いは、自分が誰からも必要とされていない、自分なんかいてもいなくてもいいと感じること」というのがあります。マザーテレサの戦いは、それとの戦いだったように思います。

 わたしたちは本当に一人一人、どんな人もかけがえのない存在だと信じています。いらない人間なんていない、と信じています。それは神がその人をお造りになり、神がその人をご自分の子として限りなく大切にしてくださったと信じるからです。

 十人のおとめのたとえ話が読まれました。ともしびに予備の油を持っていたおとめたちが賢いおとめで、油を持っていなかったおとめたちは愚かなおとめだと言われています。愚かなおとめは賢いおとめにこう言います。「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」でも賢いおとめは分けてあげないのです。ここを読むと「賢いおとめと愚かなおとめ」いうより「油を分けてあげない意地悪なおとめと分けてもらえなかったかわいそうなおとめ」いう感じがする人もいるようで、このたとえ話は意外に評判が悪い。分けてあげればいいのに、と思うのですね。なんなのでしょう?

 この話は「目を覚ましていなさい」という言葉のあとに続くたとえ話です。世の終わりあるいは人生の終わりにわたしたちは最終的、決定的に神に出会います。そこに向かってどう生きるか、何が本当に大切なのかを問いかける中で「目を覚ましていなさい」と言われるのです。では「目を覚ましているとはどういうことか」それを語るのがこの十人のおとめのたとえ話です。話の中では、花婿の到着が遅れたので、みんな眠り込んでしまった、とありますから「目を覚ましていなさい」というのと言葉の上では結びつかないのですが。でも問題ははっきりしていて「油を持っているかどうか」なのです。油を持っていることが目を覚ましていること、最終的な神との出会いに向けてふさわしく準備していることだと言うわけです。それでは油とは何でしょうか? それはもちろん「愛」です。この話の少し後に、あの有名な言葉があります。

 「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」
 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25・36、37、40)

 油とはこのこと以外ではありえません。わたしたちの心に愛があるかどうか、わたしたちの生き方が愛に満ちているかどうか。貧しい人、苦しんでいる人のことに無関心にならず、心を開いているか? そういうわたしたち一人一人の生き方の問題です。だから分けてあげることはできない、他の人の分まで代わって生きてあげることはできないのです。
 「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」
 油はどこで買えますか?どこで補充できますか?もちろんそれは神さまから来るのです。わたしたちはこの神さまの愛に触れ、神さまの愛に包まれ、神さまの愛に生かされたところからしか出発できません。マザーテレサの道もそういう道でした。わたしたちがマザーのような愛と微笑みをもって神の愛に生かされ、神の愛の呼びかけに応える道を歩むことができますように、ご一緒に祈りましょう。



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