毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

貧しい人々の母である聖マリアの祝日ミサ

20151010

今日は山谷の神の愛の宣教者会Missionaries of Charity=MC(男子)でのミサでした。
写真に写っているのはMCで最初の日本人司祭、フランシスコ高塚晃弘神父です。
9月12日にカルカッタで叙階されたばかりの新司祭で、派遣先はインドだそうです。

なお今日の祝日は神の愛の宣教会固有の祝日です。

●貧しい人々の母である聖マリアの祝日のミサ
 2015.10.10山谷・神の愛の宣教会にて
 朗読箇所:一サムエル2・1, 4-8 ローマ12・9-16 ルカ1・39-47

ホミリア
 イエスの時代、女性は社会の中で弱い立場にありました。一人の人間としての存在が認められているというより誰かに従属した者と見られていました。子どもの時は父親が彼女を守ってくれる存在でしたから、「誰かの娘」というのが彼女が社会的に認められる形でした。もちろんそこには。マリア様のお父さんは聖書に出てきませんが、伝統的にヨアキムという名前で知られています。マリアは子どものころは「ヨアキムの娘」でした。もちろん子どもの場合は男の子でも女の子でもそうでしょう。成長すると男性は一人前の人間として認められるようになりますが、女性は誰かの妻という位置づけでした。一人の独立した個人ではなく、「誰かの妻」としてしか社会的には認められていました。マリアの場合、もちろん「ヨセフの妻」です。福音書にはヨセフはほとんど登場しません。早く亡くなってしまったのでしょう。マリアは「やもめ」ということになります。やもめは社会的弱者の典型でした。しかし、彼女には息子がいました。だから福音書では多くの場合、「イエスの母」と呼ばれています。そのように女性は年をとれば「誰かの母」としてしか社会的には認められない存在でした。
 最後にはその息子が死刑囚として殺されていく。そこにマリアは立ち会っているのです。もはや彼女を守ってくれる者は誰もいなくなります。もっとも弱い立場に置かれることが十字架のもとでのマリアの状態でした。

 今日、神の愛の宣教者会では「貧しい人々の母である聖マリアの祝日」を祝っています。貧しい人々の母である貧しくない聖マリアではなく、貧しい人々の母である貧しいマリアを祝っているのだと思います。マリアご自身、先ほど読まれたルカ福音書の箇所の続き(マニフィカト)の中で自分を「身分の低い者」と呼んでいます。家畜小屋のようなところで子どもを産み、最後は死刑囚の母となっていった。ほんとうにマリアご自身が貧しく、身分が低く、弱い立場に置かれ、社会の底辺にいた。だからこそ、マリアは「貧しい人々の母」なのです。

 第二朗読でパウロはキリスト者の生き方の特徴を見事にまとめています。「愛には偽りがあってはなりません」「喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣きなさい」その最後に「身分の低い人々と交わりなさい」という言葉があります。「交わりを持ちなさい」という意味で「交わりなさい」と訳されていますが、元の言葉は「一緒に行きなさい」というような意味の言葉です。「付き合う、関わる」という意味だけでなく、「その人たちと同じところまで降りていきなさい」という意味が含まれています。マリアの中にその生き方が見られます。マリアは本当に貧しい人として、貧しい人々とともに生きられました。

 マリアの強みは連帯の力です。貧しさと身分の低さと無力さの中で孤立してしまうのではなく、人とつながっていくのです。
 ヨハネ福音書の十字架の場面もまさにそういう箇所です。一人息子を失った母と、先生を失った弟子とがイエスによって結び合わされます。貧しく無力な者同士が支え合って生きていくようにイエスは導いています。マリアはそれに答えて、貧しい人々の母となります。そして復活された主イエスが約束された聖霊を待つ間、貧し弟子たちの中心にいて祈り続けます。そのマリアは今も貧しい人々とともにいてくださる。そのマリアの姿を今日感じたいと思います。

 今の日本にも貧しさがあります。昔からありましたし、今もあります。最近では特に女性の貧困、若者の貧困、子どもの貧困ということもよく言われるようになりました。いろいろな形で弱い立場に置かれている人もいます。でもその貧しさや身分の低さは見えにくいのです。日本では「貧しい人」とか「身分の低い人」と言っても、もう1つピンと来ないような気もします。なぜそうなのか? 貧しさが「自己責任」とされてしまう傾向に問題があるのではないかと思います。社会の問題なのに自分の責任にされてしまう風潮があるのです。だから自分が貧しくても貧しいと言えず、社会の中で貧しい人が見えにくく、貧困問題が社会の問題として認識されてこない。そして厳しい問題は、見えにくいから貧しい人同士がつながることができず、孤立してしまうということではないかと思います。孤立して追いつめられていく人がおおぜいいるのです。

 マリアを思いましょう。マリアがご自身の貧しさ、身分の低さの中で貧しい者に注がれる神のいつくしみと救いの力を受け止め、貧しい人・身分の低い人々と共に歩んでいったように、わたしたちもそうできますように。
 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。」
 この聖パウロの言葉をわたしたちがしっかりと受け止めることができますように。
 わたしたちもマリアを中心とするこの貧しい人々の家族の一員として、支え合い、助け合いながら歩んでいくことができますように。
 心から祈りましょう。




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