毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

福音史家聖ヨハネ布教修道会 初誓願式ミサ

20151024

ミャンマー出身のシスター・テレサ ドイ ラの初誓願式ミサでの説教です。

●福音史家聖ヨハネ布教修道会初誓願式
 2015年10月24日 カトリック小金井教会にて
 第一朗読 一ヨハネ4・7-12 福音朗読 ヨハネ12・23-26

 カトリック教会では、昨年の11月30日待降節第一主日から来年2016年2月2日主の奉献の祝日まで、「奉献生活者の年」を過ごしています。これは第二バチカン公会議の『修道生活の刷新・適応に関する教令』の公布50年を記念するものです。この教令は1965年10月28日に公布されました。もうすぐ丸50年になります。この50年で修道生活も大きく変わりました。
 この教令はラテン語では冒頭の言葉をとって「perfectae caritatis」とも言われます。「完全な愛」という意味です。最初の文章の中では「福音的勧告をとおして完全な愛に至る」と言われていて、修道生活の目標はこの「完全な愛」だということが強調されています。公会議は、それぞれの会の創立者の精神に立ち返ることと時代の要請に合わせて会を適応させることを求めました。そのすべての刷新の目標は、愛そのものであるキリストと完全に一致することでした。

 第一朗読はヨハネの手紙。有名な「神は愛である」という箇所です。福音史家聖ヨハネの名前をいただく修道会ですから特別意味がありますね。神は愛であり、その神の愛はイエスの生涯に完全な形で現れていること、そして、だからわたしたちも互いに愛し合うように招かれていること。ヨハネ会は聖ヨハネの伝える福音の核心を生きるように招かれている会だと思います。
 わたしたちの愛はまず第一にキリストへの愛です。先にわたしたちを無条件で愛し、わたしたちのためにいのちを与えるほど愛してくださったキリストを思うこと。このキリストとのつながりを大切にすること。
 そしてそこから病者や障がい者への愛が生まれます。わたしたちが愛されたのだから、わたしたちの愛もわたしたちが出会うすべての人に向かうのです。特に苦しむ人、特別に弱い立場の人を大切にする。これもわたしたちにとって大きなテーマです。

 そして姉妹同士の愛、これも本当に大切なテーマですね。イエスを愛し、弱い立場の人を愛するということよりも、もっと難しいテーマかもしれません。しかし「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされている」と今日のヨハネの手紙にありました。福音の中でイエスは「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13・35)とも言われます。
 いろいろな問題があるでしょう。そのとき、大切なのは犯人探しをしないことです。自分は悪くない、悪いのはあの人だ。そういうところに落ち込んだら互いに愛し合うことからどんどん離れていきます。困難があるとき、何とかそれを一緒に受け止め、一緒に乗り越えるなら、愛は育ちます。これは夫婦でも修道院でも同じだと思います。

 そしてもう一つお願いがあります。笑顔を忘れないでほしいと思います。
 個人的なことを話しますが、わたしが教会に通うようになったのは大学生のときです。そこで最初に出会ったシスターは富士聖ヨハネ学園のシスターでした。あの頃はヨハネ学園に何人もシスターがいました(今はどう?)。今も思い返せば、そのシスターたちの顔が浮かんできます。不思議ですね。浮かんでくるシスターの顔は皆、笑顔なんです。そのころわたしはまだ洗礼を受けていませんでしたが、そういうシスターたちの笑顔によって神さまに導かれたということはあると思っています。

 日本語には「相好を崩す」という表現があります。「相好」とは顔つきや表情のことです。笑顔になることを意味します。笑顔になるには顔つきが崩れないといけないのですね。おもしろい表現です。同じ意味で「顔をほころばせる」という言い方もあります。「ほころぶ、ほころびる」というのは、糸で布を縫い合わせた縫い目が緩くなって離れてしまうこと。梅の蕾がほころびる、という言い方もします。笑顔というのはそういうものなのかもしれません。孫の顔を見たおじいちゃんはふだん、真面目な顔をしているけれど、相好を崩してしまうのです。

 福音では「一粒の麦」のたとえが読まれました。一粒の麦は地に落ちて死ぬのではありません。本当は生きているからこそ、豊かな実りにつながるのです。しかし、一粒の麦が一粒のままであろうとするなら、自分の殻を必死で守って、周りに開かれないならそれは一粒のままです。水分や養分を取り入れて成長するためには、自分の殻を壊さなければなりません。そこに豊かないのちがあるというのです。イエスのいのちとはまさにそういういのちでした。わたしたちもまた、同じいのちに招かれています。麦が一粒の麦のままであろうとするのではなく、殻を崩す。そのイメージは、「顔をほころばせる」というのに通じるように思いました。「一粒の麦が死ぬ」というと大げさなイメージかもしれません。小さなところで自分を、自分の殻を守ることを放棄して、そこに笑顔が生まれたらどんなにステキなことでしょうか。

 自分を守り、自分の中に閉じこもったいのちを生きるのではなく、殻を崩し、自分を崩し、神との生き生きとした関係、人との間の豊かな関係に生きる。その歩みを始めるシスターテレサを神が豊かに祝福し、愛の完成に導いてくださいますように。今日の初誓願式のミサで祈りたいと思います。アーメン。



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