毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

神の愛の宣教者会 クリスマスのミサ

20151223

今日は神の愛の宣教者会のブラザーとボランティアの皆さんと
一足早いクリスマス・ミサ。
午前中に600人のホームレスの方々に食事やプレゼントを配ったそうです。

わたしが司式しているミサの写真はもちろんなし。
集まった人々の写真も問題あるかもしれないのでなし。
というわけで一番無難なパーティー料理の写真になってます。

今年も韓国料理がメインでした。後から中華料理も!
残念ながらブラザーのカレーはありませんでした。

⚫︎クリスマスのミサ(ルカ2・1-14)
                     20151223神の愛の宣教者会(山谷)
 ホミリア
 イエス・キリストがお生まれになった2000年前のあの夜、ベツレヘムの宿屋の人々は、貧しい夫婦を泊めることを断りました。その結果、幼子イエスは家畜小屋のようなところで生まれ、飼い葉桶に寝かされることになった。それが、わたしたちが毎年毎年思い起こすイエスの誕生の物語です。ベトレヘムの人々はこの夫婦が救い主の両親であり、生まれる子が神の子であると知っていたら断らなかったでしょう。彼らは知らなかった。でもそれは彼らだけのことではありません。わたしたちも本当に近くにいてくださるキリストに気づかないでいることが多いのです。

 もう十数年前のことですが、小教区の神父として働いていたころ、クリスマスの前に二人の若者が突然教会にやってきました。雨の日で、濡れながら来て「自転車で旅行をしているんですけど、一晩泊めてもらえませんか」と言われました。そのとき、教会ではクリスマスのいろいろな行事があって、忙しくて断ってしまいました。「何でもない時ならまだしも、今は一番忙しい時期だから無理」とわたしはとっさに思ったのです。彼らは諦めてどこかへ行ってしまいました。彼らが去っていったあと、突然、今のはキリストだったのじゃないか、と思いました。だからクリスマスのわたしの前に現れたのじゃないかと。
 本当にキリストはそうやって来られるのではないか。それをわたしはいつも見逃してしまっているのではないか。
 降誕の物語は、いつもわたしたちに問いかけるのです。あなたはキリストを見過ごしていませんか???

 福音書ははっきりと語っています。
 「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。」「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25・35-36, 40)
 現代、この貧しく、弱い立場の人々の中にキリストを見出すということを、もっともはっきりとわたしたちに示してくれたのはマザーテレサでした。先日のニュースで、マザーテレサの列聖が決まったと伝えられていました。最終的にそれを決めたのはもちろんフランシスコ教皇でした。今は、このフランシスコ教皇が同じメッセージを、生き方をとおして示してくださっています。
 フランシスコ教皇は、いつくしみの特別聖年の開始にあたり、「この聖年の間に経験すべきなのは、自分とはまったく異なる周辺での生活を送るすべての人に心を開くことです」とおっしゃっています。「もっとも小さなものそれぞれの中にこそキリストがおられる。キリストのからだは、拷問を受け、傷つき、鞭打たれ、飢え、追われた姿として、再び新たに見えるようになります。それは、わたしたちが、それらがキリストのからだだと気づき、心を込めてそれに触れ、そのからだを支えるためです。」
 
 大切なのはクリスマスを祝うことではありません。
 幼子イエスが徹底的に人間の弱さと貧しさをになってくださったように、
 わたしたちも貧しい人とともに生きることです。
 大切なのはマザーテレサを聖人としてあがめることではありません。
 マザーのまなざしをもって隣人の中のキリストを見いだすことです。
 大切なのはフランシスコ教皇のファンクラブを作ることではありません。
 教皇の必死の訴えに心を揺さぶられて、わたしたちが人間の現実の中に向かって出かけていくことです。

 ごめんなさい。偉そうに言えないです。
 山谷に来るのだって、こういう時だけ。皆さんに偉そうなこと言う資格はないですね。でも本当にこの人の中にキリストがおられる、そういうふうに目の前の人を、貧しい人を、すべての人を見たいのです。
 今年もわたしたちは、もっとも無力でもっとも貧しい赤ん坊のイエスを見つめます。そこに神の栄光の輝きがあり、そこに神の最高の愛の現れがある。そう信じて、この幼子を見つめるのです。わたしたちはその見方をみことばと聖霊をとおしていただた見方です。その眼差しをもって同じように隣人を見ることができますように。そして、今日出会う人々の中に神の姿を、キリストの姿を見つけていくことができますように。アーメン。




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