毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

主の公現

20160103

⚫︎主の公現(イザヤ60・1-6/エフェソ3・2、3b、5-6/マタイ2・1-12)
             2016.1.3 カトリック豊四季教会にて
           (写真は豊四季教会聖堂のプレセピオです)

 公現の祭日になると思い出すのは、昔あるお宅で見たご降誕の飾りです。マンションの玄関に置かれていましたが、木彫りの精巧な人形のセットでした。もちろん、飼い葉桶の幼子イエスとマリア、ヨセフがいて、牛やロバ、羊飼いや羊たちがいます。そして三人の博士。その中の一人は明らかに韓国人の学者と思われる服を着ていました。韓流ドラマの時代劇でよく見るようなつばのある帽子を被った服装ですね。聞いてみると、韓国で買ってきたものだということでした。
 メシア・救い主の誕生の知らせる星を見て、東のほうからやってきた博士たち。だったら、それはユーラシア大陸の一番東の韓国からでもいいではないか。そう考えて作られているわけです。日本はやっぱり海があるからでしょうか?このような降誕の飾りを見たことがない。イエス・キリストの誕生という出来事を遠い世界の出来事ではなく、自分たちの身近なこととして受け取る素晴らしいアイデアだと思いました。

 今日祝う主の公現のテーマは、救い主であるイエスが、諸国の民に示されたことです。それはイエスによる救いが人種、民族、国籍の違いを超えるということを意味しています。キリスト教は特定の人種や民族に縛られません。 大切なのは、どの民族、どの人種であろうと同じ神の子であり、一人一人の人間が例外なく、神の子として尊重されなければならないということ。そしてすべての人はわたしにとって兄弟姉妹であるということです。これはキリスト教の根本的なメッセージです。
 初代教会の時代、まずそれは大きな課題になりました。最初のキリスト信者はペトロやパウロなど、みなユダヤ人でした。ユダヤ人は自分たちこそ神の民であるという意識を持っていて、外国人(異邦人)とは一緒に食事もしませんでした。しかし、ペトロがローマ人コルネリオに招かれて食事を共にしたことをきっかけに、そしてパウロの異邦人への宣教によって、異邦人とユダヤ人の違いを超えて、教会は発展していきました。

 「主にあってはユダヤ人も異邦人もなく、自由人と奴隷の違いもなく、男と女の差もない」これは古代の社会の中でとても大きなキリスト教のメッセージでした。具体的に貧しい人、奴隷、外国人、女性を大切にするキリスト教の生き方が少しずつ古代ローマ帝国の人々に浸透していくことになったのです。その後のキリスト教の歴史の中には内部の争い、外部との戦い、いろいろありました。でも本当にどんな国のどんな人も同じ神の子、兄弟姉妹であるという理想は生き続けています。そしてその理想に基づいて、少しずつ差別を乗り越え、対立を乗り越えようとしてきたのが、キリスト教社会の歩みであり、国際社会の歩みでもあったのではないかと思います。

 しかし今、国と国、民族と民族、人種と人種、さらに宗教と宗教の対立があおられているような現実があります。暴力やテロによって、その対立に拍車をかけようとする動きが昨年も目立ちました。イエス・キリストの到来から2000年経って、人類はこの人種、民族、国籍による対立を乗り越えることができずにいる、それは本当に悲しい、残念なことです。その中で犠牲になるのは、何よりも弱い立場の人、女性、子どもなのです。

 イエスはどのようにして、国や民族の壁を超えたのでしょうか?もう一度思い出しましょう。イエスの時代、特にユダヤ人と対立していると思われていたのはサマリア人でした。イエスは道に倒れていた人を助ける隣人愛についてのたとえ話の主役をあえてサマリア人にしています。どんな民族どんな国の人の中にも愛する心がある、目の前の人の苦しみを見て見過ごすことのできない共感の心がある。イエスはそのことをしっかりと見ていました。またサマリアの女性と出会ったとき、「水を飲ませてください」と自分から彼女に頼みました。「あなたも渇くし、わたしも渇く」その共感からユダヤ人とサマリア人、男性と女性という壁を乗り越えてきました。

 人種とか民族とか、国籍とか宗教とか、そうやって人を色分けするのは確かに便利です。役に立つこともあるでしょう。でも本当にそこにいるのは一人一人の人間なのです。決して鬼や悪魔ではありません。泣いたり笑ったりしながら必死で生きている人間。国を追われ、職を求め、必死で国境を超えざるをえないような人間。その人間へのまなざしを忘れない。すべての人を同じ神の子として、兄弟姉妹として見る、だからこそ特に弱い立場の人に目を注ぐ、その信仰と愛の歩みをわたしたちが今年も深めることができますように。
 今年は「いつくしみの特別聖年」です。「御父のようにいつくしみ深く」がテーマです。何よりも貧しく弱い立場に置かれている人、自分と違う国の人、自分たちの国に来て生活している人、囚われの身となっている人に目を向け、共感し、連帯するよう、フランシスコ教皇は呼びかけています。もちろんそれは2000年前にイエスが呼びかけたことでした。この呼びかけに応える心をもって、2016年の歩みを始めたいと思います。




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