毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

東京教区年始の集いミサ

20160111

⚫︎東京教区年始の集いミサ(サムエル上1・1-8/マルコ1・14-20)
                       2016/1/11東京カテドラル
 (主司式:岡田武夫大司教、説教:幸田和生)

 東京教区の年始のミサは毎年1月の第2月曜日(成人の日)に行われることになっています。教会の暦では主の洗礼の祝日か、その翌日の年間第一月曜日にあたります。今日は年間第一月曜日のミサを祝っています。福音朗読ではイエスの宣教開始。まさに新しい年のはじめにふさわしい典礼です。
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
 マルコ福音書によれば、これがイエスの宣教開始の言葉でした。

 神の国の福音とは何でしょうか?
 「国」と言いますが、元の言葉は現代の民主国家ではなく、古代の「王国」を指す言葉です。神が王となってくださる、それが神の国のメッセージでした。長い年月、悪い人間の王や外国の王に苦しめられてきた人々にとって、神が王となってくださるというのは救いのメッセージでした。しかし、今のわたしたちにはピンとこないかもしれません。
 聖書の中で、王のイメージとつながるのは羊飼いのイメージです。わたしたちにとってはこの羊飼いのイメージのほうがわかりやすいかもしれません。神が羊飼いになってくださる。その羊飼いは「良い羊飼い」で、羊一頭一頭を知っていてくださり、羊のためにいのちを投げ出し、見失った一匹の羊を探し求めて、見つけたら大喜びして群れに連れ帰られる。神はわたしたちを決して見捨てず、そういう羊飼いとしてわたしたちを導いてくださる。それが神の国の福音、神の国のメッセージだと言ったらもう少しわかりやすくなるでしょうか。
 イエスは言葉と行動をとおしてこの神の国の福音を告げました。神が「アッバ=おとうさん」として、一人一人の人間を限りなく大切にしてくださっていること。そこには誰一人例外がないこと。だからこそ特別に、貧しい人、病気や障がいのある人、弱い立場にある人、罪人にこそ目を注ぎ、特別にいつくしんでくださること。

 これはまさに「いつくしみの特別聖年」のテーマです。聖年のロゴマークはちょっと不思議な絵ですね。昔から親しまれてきた「良き牧者」の像がもとになっていますが、担がれているのは羊というより人間で、その目が担いでいるキリストの目と合体しています。まあ細部はともかく、この迷子になった羊を担いで群れに連れ帰る羊飼いのイメージは、「いつくしみの特別聖年」の中で大切なイメージなのです。
 この羊飼いの姿の中に現れている神のいつくしみを深く味わうこと、そしてわたしたちが御父のようにいつくしみ深くなることによって、いつくしみ深い御父を表すものとなること。これが聖年のテーマです。当たり前のことです。神の国の福音そのものを生きようとフランシスコ教皇は呼びかけておられるわけです。だから巡礼とか免償とか「いつくしみのチャプレット」とか、そんなことはある意味で枝葉末節なのです。病気でベッドから動けない人も、刑務所にいて自由を奪われている人も、みなこの特別聖年の恵みにあずかることができると教皇ははっきりおっしゃいます。本当に大切なのは神のいつくしみを生きること、そのことをわたしたちは今年一年、しっかりと心がけていきましょう。

 今日の福音の後半は、イエスがガリラヤ湖で4人の漁師を弟子にした話です。前半とつなげて考えれば、この4人はイエスの神の国の呼びかけに最初に応えた人だと言うことができます。神の国のメッセージというのは、テレビのニュースみたいにどこかの遠いところで何かが起こりました、というような客観的な出来事ではありません。
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
 神が王となってくださる、神が羊飼いとしてわたしたちを養ってくださる。その呼びかけにわたしたちがどう答えるか、心を向けてそこに自分をゆだねるか、それとも無関心で背を向けるか、それがいつも問われている、そういうメッセージなのです。4人の漁師はイエスの呼びかけに応えました。そしてそこにもう、ある意味で神の国が始まっているとも言えるのです。
 イエスとペトロとアンデレとヤコブとヨハネ。まだ5人しかいません。でもそこに神のいつくしみを生きようとする共同体があれば、御父のもとに互いに兄弟姉妹として生きようとする人々の輪があれば、そこに神の国が始まっているのです。
 わたしたちの教会は日本の社会の中で本当に小さな存在です。でも、ここに神の国が始まっている、羊飼いであるキリストに従う群れがある。そのことの素晴らしさを忘れないようにしましょう。『教会憲章』第9項の言葉に励まされます。「このメシア的な民は、現実にはすべての人を含まず、またしばしば小さな群れのように見えるが、それは全人類にとって、一致と希望、救いのもっとも確かな芽生えである」。

 現実には悲しいことにたくさんの「教会難民」がいます。小教区の人間関係、司祭との関係、そういうことに傷ついて、自分の教会にいられなくなって、別の教会に通っている人はたくさんいます。特に東京教区だと通える教会はいくつもありますから、その中から自分に合う教会を選ぶこともできてしましますね。それでいいとは言えませんが、でも元の教会に通えないほど傷ついた人がいるのも現実なのです。難民を強制送還しても問題は解決しません。
 教会に居場所を見いだせない人もたくさんいます。教会に来てもそこを自分の居場所だと感じられないというのです。そうして教会からだんだんと離れていってしまう人も少なくありません。それもとても残念なことです。
 フランシスコ教皇は、「教会の生命を支える柱は、いつくしみです。教会の司牧活動は、すべてが優しさに包まれていなければなりません」(写真の冊子・Misericordiae Vultus10)とおっしゃっています。そのためにわたしたちの小教区のあり方がどうあったらいいのか、あるいはもっと小さな単位でどのようにしたら一人一人が安心できる共同体を作ることができるか、信者同士が支え合い、励まし合って信仰の道を歩むためにどんな分かち合いの場が必要なのか。そういうことにもっともっと関心を持っていきたいと思います。いや実際には祈ることしかできないかもしれません。しかし教会の中で居場所を見失っている人がいる、そのことに対する無関心を乗り越えたい。

 フランシスコ教皇はいつくしみの特別聖年の間に経験すべきこととして、「自分とはまったく異なる周辺での生活を送るすべての人に心を開くこと」(同上15)だとおっしゃっています。それは大きな課題で、わたしたちがこの世界の貧困や暴力の現実、難民や環境破壊の現実に対する無関心を乗り越えるようにという呼びかけです。
 そして同時に、もしかしたらわたしたちの身近なところにも、居場所を失い、さまよっている人がいるかもしれない、ということも忘れないように。本当にわたしたちの教会が神のいつくしみを表すものとなることができますようにご一緒に祈りましょう。





PageTop