毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

キリスト教一致祈祷週間東京集会

20160117

⚫︎2016年キリスト教一致祈祷週間 東京集会
                    日本聖公会三光教会にて

聖書朗読 イザヤ書 55章1-3節
     詩編 145編8-9, 15-18節
     ペトロの第一の手紙 2章9-10節
     マタイによる福音書 5章1-16節

説教「主の力あるわざを伝えるために」

 わたしは大学生のときにカトリック教会で洗礼を受け、今日まで40年間カトリック信者として歩んできました。いつの間にかカトリック司祭になり、気がついたらカトリック司教にまでなってしまいました。バリバリのカトリックのような顔をしていますが、なぜわたしがカトリックなのか、考えてみるとそれは出会いとしか言えない気がします。

 キリストに出会うまでわたしは暗い青年時代を過ごしていました。人生に目的が見いだせず、勉強を熱心にする意欲もわかず、本ばかり読んでいたので、一年浪人して、やっとある大学に入りました。浪人時代にたまたま聖書に出会いましたが、いくら読んでも分からない、信じられないようなことばかり書いてあるので大学に入ったら少し聖書を勉強してみよう、と思っていました。それでキリスト教系の大学をいくつか受験したのですが、全部落とされて、わたしを入れてくれたのはキリスト教系ではない大学だけでした。仕方ないので、サークルを探しました。するとキリスト教系のサークルが2つありました。一つはキリスト教研究会。もう一つはカトリック研究部。わたしはまずキリスト教研究会に行ってみました。わたしは公立高校で学んだ世界史の知識からすると、カトリック教会というのは中世の暗黒時代に栄えたキリスト教で、その堕落したカトリックを批判してできたのがプロテスタント教会というのが基本的な図式でした。ですからカトリック研究部にいく気にはなれませんでした。キリスト教研究会に行くと、そこはきれいなカーテンのかかった部室で、女子学生がたくさんいて、賛美歌を歌っている、そんな華やかな雰囲気でした。当時のわたしは本ばかり読んでいた暗い青年でしたので、そんな雰囲気に入っていくことは無理だと思って、そこを出ました。仕方なく次に向かったのがカトリック研究部でした。伝統だけはあるこのサークルの部屋は古くて薄暗く、男子学生が三人座っていました。「どんな活動をしていますか?」と聞くと、「いや、たいした活動をしているわけじゃない。週に一度、聖書の勉強をしてくるぐらいだ」という答え。それを聞いてわたしは「ここだ」と思いました。そのときのわたしの思いはサークルで楽しい学生生活をしようというのではなく、ちょっと聖書の勉強ができればと思っていたので、そこが一番あっていると思ったのです。
 当時は大学の先輩で、神学校に入り、最上級生になっていた助祭(ディーコン)の方が毎週一度来てくれていて、わたしたちに聖書の話をしてくれていたのですが、集まる部員も少なく、わたしとその助祭の一対一ということも少なくありませんでした。そして彼の話を聞いてもよく分からない。なぜ信じられるのか、不思議でした。聖書を信じるのも不思議ですし、ましてカトリック教会の教えを信じるのはもっと不思議でした。それでもやめなかったのはやはりイエスという方にどこかで惹かれていたからだと思います。
 その助祭は司祭になって神学校を卒業し、東京都内のある教会に助任司祭として派遣されました。その神父はわたしを教会に誘い、わたしは教会での聖書研究会に参加するようになりました。もちろん信じられない状態はそのままでした。

 わたしを変えたのは、夏に教会の青年たちと知的障害者の施設に行ったことでした。栃木県の那須にある光星学園というカトリックの施設でした。そこで一週間、学園のさまざまな作業を手伝いながら、30人ぐらいの青年で共同生活をしました。わたしは誘われるままに何となくそれに参加したのです。
 知的な障害を持った人、比較的軽い障害の人たちで一緒に作業をする時間もありました。そこでその人たちがきらきらと輝いて生きている姿に触れたのです。本当に笑顔が素敵でした。わたしは驚きました。知能に障害があり、こんな不便な施設の中での生活をしていながら、なぜこの人たちはこれほど生き生きと生きているのだろう。そしてその最後の日、カトリックの集まりですからミサがあったのですが、そのミサの最中、キリストは今、生きていて、ここにおられるという強烈な感覚に包まれたのです。それがわたしのキリストとの出会いの体験です。そこからいろいろなことが一瞬にして分かってきました。この障害者たちが生き生きと生きているのは与えられたいのち、生かされたいのちを精一杯生きているからで、自分がそうできないのは、結局人と比較して「どうせ自分なんかたいしたことない」と思っているから。でもこの自分のいのちも本当は与えられたいのちで、その与えられたいのちを、生かされたいのちを精一杯生きればいいのではないか、そうしたら自分もこの障害者たちのように生き生きと生きられるのではないか。そう思い始めたのです。聖書を読み直すと、「空の鳥、野の花を見なさい。神は種を蒔きもせず、刈り入れもしない鳥を養ってくださり、働きも紡ぎもしない野の花を美しく装わせてくださる」とあります。そうだそうなんだ。「貧しい人は幸い。神の国はあなたがたのものである」そうだ、そうなんだ。聖書の言葉がほんとうだと思えるようになりました。イエスの言葉が本当にわたしを生かす言葉として響いてくるようになったのです。

 わたしはイエス・キリストを信じ、イエスについていきたいと思うようになりました。
 でも洗礼を受ける決心をするまでに少し時間がかかりました。だいたいどの教派の教会で洗礼を受けるか? カトリック教会が理想的な教会だとは思えませんでした。カトリックの教えの中にひっかかるものもありました。考え方としてプロテスタントの方が正しいと思えるようなところもいろいろあったのです。でもまあ、どこかに理想的な教会があるというのは間違いだろうと思いました。どの教派の教会でもいいところと悪いところがあり、どこであってもそこでほんとうのキリスト者として生きることはできるはずだと思いました。第二バチカン公会議というものがあって、カトリック教会は変わろうとしているということも知っていました。そして何より、わたしがキリストに出会ったのはカトリックの集まりの中でのことでした。だからカトリックになりました。

 すみません。個人的な話が長くなりました。日本のキリスト者の多くはわたしみたいなものかなと思って話をさせていただいています。それぞれの教派の教会の歴史や教義を学び、それを比較して、一番いい教会を選んだ。そういう人もいるかもしれませんが、多くの人はたまたま出会ったのが日本キリスト教団であったり、聖公会であったり、カトリックであったりしているんじゃないか。たまたま生まれた家が、親がそうだったという人もたくさんいらっしゃいますね。

 来年は宗教改革500年という年を迎えます。マルティン・ルターが当時のカトリック教会を批判して、ヴィッテンブルクで95ケ条の論題をいうのを掲げたのが1517年のことで、そこから宗教改革が始まったといわれています。ルターの批判は今のカトリック教会からみれば、結構当たっている面もあります。でも当時はお互いを受け入れることができず、教会の分裂になってしまいました。500年前にヨーロッパのキリスト教会が分裂した、その分裂の跡をいまだに引きずっているのは、ある意味、わたしたち日本のキリスト者にとってはとても迷惑な話ですよね。
 でも同時にヨーロッパやアメリカで長い年月を生きてきたキリスト教会の伝統がなければわたしたちはイエス・キリストに出会うことはできなかったわけで、それぞれの教派の教会に感謝すべきでもあります。それぞれの教会の伝統をキリスト教の豊かさとして受け取ることができればいいのでしょう。どちらが正しいかとか、どこが一番いいか、というのではないはずです。その上で、もっとお互いを理解して、尊重し合いたいと思います。わたしのように、たまたま出会った教会に属しているという人が多いのが日本の教会だとしたら、日本のキリスト者は特に「教派の違いは豊かさなのだ」ということをあかしすることができるのではないでしょうか。
 そしてまたそのためには、わたしたちが根本的に「主において一つ」だということをもっと心に留めておきたいと思います。教会は大切ですが、もっと大切なのはイエス・キリストご自身です。キリストにおいては、教派の違いはほんとうは問題ではありません。わたしたちは一つの信仰告白で結ばれた一つの民なのです。そのことを思い出させてくれるのが、このキリスト教一致祈祷週間の合同礼拝だと思います。
 今日のイザヤ書の朗読に「水」や「食べ物」のイメージが出てきました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たないものも来るがよい。穀物を求めて、食べよ。」詩編でも「あなたはときに応じて食べ物をくださいます」と歌われています。「水」「食べ物」と聞いて洗礼やユーカリスト(聖餐式・ミサ)を思い浮かべる方もいるかもしれません。しかし、水や食べ物はたとえであって、ほんとうは神のもとに行き、神の言葉に聞き従うこと、そこにいのちがあるというのです。

 わたしたちはいろいろな仕方で、神のいろいろな導きによってイエスに出会わせていただきました。イエスを知った民、イエスによって父なる神を知った民はどう歩んでいったらいいか。それが今日の朗読、後半の二つの箇所のテーマです。
 ペトロの第一の手紙は、洗礼を受けて新しく信者になった人に向けて語られた説教が元になっているのではないかと言われています。あなたがたは、闇から光へと招き入れられ、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」なのです。そういうものとして生きていきなさい、というのですね。「選ばれた民」は特権意識を持った民のことではありません。使命を持った民のことです。その使命は、「王」として弱い立場の人を大切にし、すべての人が一つになるために働く使命、また「祭司」としてすべての人のために神に祈り、神と人とをつなぎ合わせる使命です。
 マタイ福音書の山上の説教も、もともと初代教会の中で新しく信者になった人に、キリスト者として生きるということはこういうことだということを指し示すために、それにふさわしいイエスの言葉が集められたものだと言われています。
 あなたがたは「幸い」と呼ばれ、神からの祝福を受けているのだ。あなたがたはもうすでに「地の塩、世の光」とされているのだ。だから善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる神の愛を自分の生活の中で生きなさい、どんなときも父である神に絶対的な信頼を置いて歩んでいきなさい。これがキリスト者の生き方だ。そう教えるのです。

 毎年、キリスト教一致祈祷週間のパンフレットの準備はどこかの国の教会の超教派の集まりにゆだねられています。今年の担当はラトビアの諸教会でした。今日の聖書の箇所を選んだのもラトビアの教会の人々です。
 ラトビアはドイツとロシアという大国の間にあって、長い苦難を経験してきた国です。そこにはルーテル教会、正教会(オーソドックス)、バプテスト教会、カトリックなどさまざまなキリスト教会があります。そこでは、イエスのメッセージを現代社会の中に響かせるために、諸教会が共同でいのちの問題や社会の問題についてのメッセージを発表しているそうです。また教派を超えた共同の祈りの集まりの場もあるそうです。「主の力あるわざを、広く伝えるために招かれて」というペトロの手紙から採られた言葉が今年のテーマになっていますが、まさに「王であり祭司」としての働き、「地の塩、世の光」としての働き、そこにおいて協働しようとしているようです。
 私たち日本のキリスト者もこうして心を合わせて祈るとともに、イエスの福音を告げるという神から与えられた使命をもっともっと共同で生きることができますよう、ご一緒に祈りたいと思います。



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