毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

灰の水曜日

20160210

四旬節が始まりました。朝7時のミサの説教です。

⚫︎灰の水曜日のミサ
 (ヨエル2・12-18/二コリント5・20~6・2/マタイ6・1-6、16-18)
                      2016.2.10関口カテドラル
 今日の福音は「施し、祈り、断食」について教えるイエスの言葉です。この三つのことは四旬節の回心のわざとして伝統的に大切にされてきました。現代では「祈り、節制、愛の行い」と呼ばれていますが、根本的には同じことです。
 イエスはわたしたちにもっとたくさん施ししなさい、もっと長く祈りなさい、もっと頑張って断食しなさい、とおっしゃっているのではありません。イエスが問いかけるのは、祈る時、施しをする時、心がどこに向いているのか、ということです。祈るとき、心は神に向いているはず。その祈りを人に見せるために行い、自分の信心深さを誇るためにするのであれば意味がない。施しをする時、心は苦しんでいる兄弟姉妹に向いているはず。それを人に見せびらかしたり、自己満足の手段にしては意味がない。本当にそのとおりです。

 では断食は? 今日は特別に断食の日ですが、断食の精神とは何でしょうか?
 昔読んだイスラム教についての本の中にこういう言葉がありました。
 「ムスリムが断食するのは、ただ単に食を断つことに意味があるのではない。一時的に飢えを体験することによって、食物なしに生きていけない自分を見つめ、その自分を生かしてくださる神を思うため。また自分と同じように飢えに苦しむ兄弟のことを思うためである」
 宗教的な断食の意味をとてもはっきりと表す言葉だと思いました。断食する時、わたしたちの心は、このわたしに食べ物を与え、生かしてくださっている神に向かうはず。同時にわたしを同じように食べ物なしに生きられず、その食べ物にも事欠いている兄弟姉妹に心が向かうはず、それが断食の本来の意味なのです。人に見せるために断食するのはおかしいのですね。

 フランシスコ教皇がいつも語っておられることに「無関心を乗り越えよう」ということがあります。現代世界はあまりにも問題が大きく、複雑になっていて、わたしたちはそれを見るとどうしようもないと感じてしまって、「無関心のグローバル化」におちいっていると指摘し、その無関心を乗り越えようというのです。
 一つは神に対する無関心があるでしょう。四旬節をとおして、この無関心を乗り越えるように呼びかけられていると思います。
 今日の典礼には「灰」のシンボルがあります。いつも思い出すのは、創世記2・7の言葉です。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」人間は神によって生かされ、神とのつながりを失ってしまえば塵にすぎない存在なのです。その神に立ち帰り、いつくしみとゆるしの神との出会いを深めるために灰の式があります。

 もう一つは人に対する無関心、隣人に対する無関心です。フランシスコ教皇は、昨年出された「いつくしみの特別聖年」についての書簡で、イザヤ書を特に引用して、今年の四旬節のテーマについて語っています。
 「預言者イザヤの次の箇所を、祈り、断食、愛のわざを行うこの季節に、より具体的に黙想すべきです。『わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。さらに、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。…』」(『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔』17)
 この預言的なみことばを深く黙想するよう呼びかけておられます。

 また教皇は、たびたび「慈善のわざ」についても語っておられます。これは13世紀ごろヨーロッパで形作られ、日本にはキリシタン時代に伝えられた14の「いつくしみの行い」のことで、キリシタン時代は「慈悲の所作」と呼ばれていました。
 身体的な慈悲の所作と精神的な慈悲の所作がそれぞれ7つあります。
 身体的な慈悲の所作とは、「飢えている人に食べさせること、渇いている人に飲み物を与えること、着る物をもたない人に衣服を与えること、宿のない人に宿を提供すること、病者を訪問すること、受刑者を訪問すること、死者を埋葬すること」です。精神的な慈悲の所作は「疑いを抱いている人に助言すること、無知な人を教えること、罪人を戒めること、悲嘆に打ちひしがれている人を慰めること、もろもろの侮辱をゆるすこと、煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと、生者と死者のために神に祈ること」(上掲書簡15参照)。
 身体的な慈悲の所作はマタイ25章で「この最も小さい一人にしてくれたのはわたしにしてくれたことだ」とイエスが語る行いです。福音書では6つの行いですが、7つにするために「死者の埋葬」が付け加えられたようです。
 精神的な慈悲の所作の中の、「慰めること、ゆるすこと、耐え忍ぶこと、祈ること」はわかりやすいと思いますが、「助言し、教え、戒める」というのは難しく感じられるかもしれません。人に優しくしていればいいというのでもないのです。たぶんこれらの言葉は、本当に兄弟姉妹のことを思えば、あえて厳しいことも言わなければならない時もあるという面を示しているかもしれません。そういう面でもわたしたちは、隣人に対する無関心を乗り越える必要があるのでしょう。

 わたしたちがこの四旬節をとおして、新たな思いで、神とのつながりを味わい、隣人とのつながりを味わうことができますように。

⚫︎以下は、昨年、教区のFacebookページに載せた文章ですが、ご参考まで。

 【灰の水曜日を前に】 ~断食と節制について~
 カトリック信者は、祭日を除くすべての金曜日に「小斎」を守る務めがあります。灰の水曜日(四旬節のはじめ)と聖金曜日(聖週間・主の受難の日)には「小斎」とともに「大斎」も守ることになっています。
 「小斎」はラテン語のabstinentiaの訳で、本来の意味は「節制」です。伝統的には鳥獣の肉を食べないことですが、各自の判断で回心の他の形(愛の行い、祈り、さまざまな節制)をもって代えることができます。満14歳以上の信者がこれを守ります。
 「大斎」はラテン語ではieiuniumで、これが本来の意味での「断食」です。と言っても今の規定では、1日のうち十分な食事をとるのを1回だけにし、他にもう1回、少しの食事を摂ることができることになっています。満18〜59歳の信者がこれを守ります。なお、「小斎・大斎」とも、病気などの特別な理由のある人は守らなくてよいことになっています。
 「小斎・大斎」の「斎」という日本語には本来「物忌み」の意味があり、「神事を前に酒や食事などの欲を絶ち、身を清める」ときに使われた言葉なので、四旬節の断食や節制を指す訳語として用いられたようです(ちなみに「書斎」というのは「いろいろなものを断って、書き物のためにこもる部屋」の意味)。ただし、キリスト者の断食や節制には、単に身を清めるというだけでなく、主イエスの受難を思い、神への信頼と人への愛を深めるという意味があることは大切です。(幸田和生)

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