毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

聖心女子学院・卒業感謝のミサ

20160305

聖心女子学院高等科・卒業感謝のミサの説教です。

●卒業感謝のミサ
                    2016.3.5聖心女子学院聖堂にて

聖書箇所:一コリント12・12-26/マタイ11・25-30

ホミリア
 先週の土日、わたしは名古屋に行ってきました。「障害者の黙想会」というのがあって、そこでお話を頼まれたのです。もう29年も続いていると聞いて驚きました。皆さんが生まれるずっと前からですね。わたしは初めての参加でした。
 「障害者の黙想会」というので、どんな人が参加しているのだろうと思いましたが、行って見ると実にいろいろな障害をもった方々がいらっしゃいました。60人ぐらいの方が集まっていましたが、その会の代表の方は目の見えない人でした。聴覚障害の方もいました。車椅子の方、肢体不自由の方、障害者の家族・友人の方もおおぜいいらっしゃいました。
 会場の部屋の中をうろうろ歩き回っている若い男性がいました。みんな席についてお祈りしようとしていても彼は歩き回っています。自閉症で知的障害の方だと分かりました。わたしは慣れているので驚きませんでしたが。精神障害の方もいるのが分かりました。精神科の閉鎖病棟に入院していて、今回やっと外泊が許されたという女性もいました。こんど開放病棟に移れると分かって周りのみんなが喜んでいました。重い脳性麻痺の女性は周囲の人々に支えられて一人暮らしをしているそうです。これも仲間たちの自慢でした。

 こんなにいろいろな種類の障害をもった方々が集まっているところに行ったのは初めてでしたが、そこにあったのは何かとても素敵な雰囲気でした。いろいろな障害をもった人がいて、お互いを受け入れあっている。福音書の中でイエス様の周りに病気や障害をもった人々が集まってくる場面がたくさんありますが、それはきっとこんな感じだったのではないかと思いました。
 その名古屋での集まりでも出た話ですが、かつて「障害者自立支援法」というのがありました。とにかく何が何でも自立しろ、っていう雰囲気があって、どうしても自立できない人は切り捨てられてしまうかのような印象がありましたから、その後、名前が変わりました。今は「障害者総合支援法」と言っています。日本では、「自立」というと、とにかく人の世話にならない、仕事をして自分のお金は自分で稼ぐ、そういう意味が強い。そうすると、できない人は排除されてしまうのですね。でもヨーロッパなどでは「自立」とはそういう意味ではない、こんな意味だと社会福祉学の先生に聞いたことがあります。
 「自立とは、さまざまな形で最善の支援を受けながら、自らの人生の主体者として生きること。」とてもいい言い方だと思いました。

 なんでこんな話をしているかというと、今日聖心女子学院の卒業式を迎えた皆さんにとって、これからの大きなテーマは「自立」ということだろうと思うからです。
 親の保護のもとに育ってきた子どもがだんだん成長して、自分の力で、自分の責任で、いろいろなことができるようになっていく、それはもちろんとても大切なことです。でも今日、お話ししたいこと、「自立」といっても、すべて自分の責任で何でもする、人の世話にならないという意味ではないということ。「自立」と「孤立」は違うということです。

 先ほどのヨーロッパの自立の定義では「さまざまな支援を受けながら自らの人生の主体者として生きる」とありました。はじめから、人とのつながりが当たり前のこととして考えられています。人は一人で生きているのではありません。支え合って生きているのです。それを忘れた時、人は孤立に陥ってしまいます。その意味で「自立」することは大切ですが、「孤立」しないということはもっと大切です。その上で「自分の人生の主体者として生きる」というのは、「自分はこう生きていく」と自分の人生を選び取っていくこと。これが自立なんですね。
 人との交わりの中で人と人との支え合いの中で生きていく。昔は地域の共同体の中で人と人とが支え合って生きていくのが当たり前でした。でも今、特に東京のような大都会ではそういうものはどんどん失われていっています。その中で人は孤立してしまうのです。とても恐ろしいことです。他の人から見て、いかにもあの人は孤立しちゃっているなと分かる孤立もあります。でも周りの人が気づかないような見えない孤立というのもあります。その孤立は人間にとって本当に厳しいことです。

 先ほど読まれたパウロの手紙は、大切なイメージをわたしたちに伝えています。人は一人で生きているのではない、という孤立していない人間のイメージです。
 「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」(21節) これは体のたとえですが、本当は人間同士のことです。誰も人に向かって「お前はいらない」とは言えないはずですね。でも自立ばかりを強調すると、いつの間にか「あんな人はダメな人間だ。あんな人はいらない」って思うようになるかもしれない。逆に、自分の人生がうまくいかなくなった時に、「自分なんかいらない」と思ってしまうかもしれない。社会ではそういうことがいっぱいあります。でも本当はそうじゃない。いらない人間なんていないんです。
 皆さんはカトリック学校に学んできました。だから本当にそのことを忘れないでほしいと思います。本当に人と人とが支え合って生きる中でこそ、社会があり、人間としての自立や成熟があるのだということを分かってほしいと思います。

 皆さんはこれから多くの学識や高い社会的ステータスを得るようになるかもしれません。そのときなっても、どんな人もかけがえのない大切な人で、いらない人間は一人もいないということを忘れないでください。本当に一人一人の人間を尊重できる大人になってください。と同時に本当に辛いときには、神様、イエス様のことを思い出してください。イエス様は言いました。「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとにきなさい。」(マタイ11・28) あなたは一人ぼっちじゃない。あなたの重荷をわたしが一緒に担おう。そう呼びかけています。
 自分が自分の生き方を選び取っていくという本当の「自立」の中で、神が共にいてくださること、人が一緒にいてくれることをどうか忘れないでください。孤立に陥らないでください。人と人との豊かな支え合いの世界を忘れず、むしろそれを作っていく人間になってください。


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