毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

ラファエル神学生助祭叙階式

20160307

メキシコのグアダルペ宣教会の神学生は、将来日本で司祭として働くために、日本語研修の後、日本カトリック神学院で教区神学生と一緒に神学の勉強をしてきました。
やっと助祭叙階の時を迎えました。
なお、司祭叙階は来年? 場所はメキシコになるとのこと。

●グアダルペ宣教会助祭叙階式
 受階者:メヒア・タデオ・ラファエルMejia Tadeo Rafael
 2016年3月7日千葉寺カトリック教会にて

聖書朗読=エレミヤ20・7-11/エフェソ4・1-7,11-13/マタイ28・17-20

ホミリア
 今から25年前の1991年、教皇庁の諸宗教評議会と福音宣教省から共同で出された『対話と宣言Dialogue and Proclamation』という文書がありました。そのころ読んだ記憶がありますが、内容はほとんど覚えていません。でもそのタイトルは強く心に残っています。キリスト教が、キリスト教徒がまだ少ない文化の中に入っていったときに、相手の文化を尊重して「対話」することが大切。でもそれだけではなく、キリストの福音をはっきりと「宣言」することも大切。対話なしに宣言だけではダメです。でも逆に宣言なしに対話だけでもダメなんですね。日本で宣教師として生きようとしているラファエルさんにとって、永遠とも言える課題でしょう。どうかずっと悩んでください。考え続けてください。

 第一朗読のエレミヤはたとえ相手がどう受け取ろうと神のことばを伝える。そのために苦しんだ預言者でした。宣教命令といわれるこのマタイ福音書の結びの箇所も宣言という面が強いと思います。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」確かに福音を、キリストの教えを明確な言葉で伝えることが必要です。キリスト教の教えを宣言したとき、いつも歓迎されるとは限りません。それでも神のことばを伝えることをやめてはならないのですね。
 一方、第二朗読には「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい」という言葉がありました。パウロは教会内のことを語っているようですが、教会の外の人に対してもそうあるべきでしょう。へりくだり、相手を尊重する。それは対話の姿勢と言えます。
 対話と宣言、そのどちらも大切。それは間違いありません。

 しかし、その二つよりももっと大切なものがある。それは「生き方のあかし」。今日は助祭叙階式ですから、特にこの「生き方のあかし」ということを強調したい。この「生き方のあかし」ということが助祭にとって特に大切だと思いますし、日本で働く宣教師であるラファエルさんにとって大切な意味があると思います。
 助祭は典礼の中での役割があります。福音を朗読し、祭壇に仕え、聖体を信者に授け、場合によっては葬儀や結婚式・洗礼式を司式することもあります。典礼の中での役割は確かに目に見えます。でもほんとうの助祭の役割はそうではありません。古代の教会の中で助祭は今よりもずっと重要な役目を持っていました。助祭には貧しい人や病人への配慮が特にゆだねられました。それはふだんの共同体の生活の中で、貧しい人々の必要をどう満たすかという働きをしていたから、それを典礼の中でも目に見える形で表したのです。助祭は教会の中で、特別に「仕えるキリスト」の目に見えるしるしなのです。ですから特別に「生き方によるあかし」が求められています。

 助祭ということで真っ先に思い出すのは、使徒言行録に伝えられている聖ステファノの姿です。ステファノは使徒たちがみことばの奉仕に専念できるように、貧しいやもめたちの世話を任された奉仕者(最初の助祭たち)の一人でした。彼はもちろんその働きを忠実に行っていたでしょう。そして彼は説教にも優れていました。イエスについて言葉で証しするという点においても重要な働きをしていました。しかし何よりも有名なのはその殉教の場面です。
 「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」(使徒言行録7・59-60)

 このステファノの殉教の姿はルカ福音書のイエスの十字架の姿と重なります。
 イエスは十字架に付けられたときにこう祈りました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)そして息を引き取る直前には「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23・46)と言われました。
 自分を迫害する人々のためにゆるしを願うという人に対する愛、そして神にすべてをゆだねる信頼の心。ステファノの殉教の姿はイエスの受難の姿をそのまま表すものでした。これが「証人」ということです。古代から殉教者は「証人」と呼ばれてきました。それは彼らがイエスの、人に対する愛と神に対する信頼を自分の命をかけて表したからです。

 「サウロはステファノの殺害に賛成していた」(使徒言行録8・1)サウロ(のちに偉大な使徒となる聖パウロ)はその場にいたのです。彼にとってキリスト信者は律法の秩序を破壊する者と見えていました。だからキリスト信者を迫害したのです。しかし、迫害しながら、迫害に耐えているキリスト信者の姿がサウルの心の中に焼き付けられていきました。ステファノの最後の最後まで、主に信頼を抱き続けた姿。そして敵をもゆるし、愛した姿。イエスの十字架の生き写しのような姿。その姿はサウロの心のどこかに強烈に焼き付いていました。それがある日、爆発しました。ダマスコに向かうサウロが光に打たれ、イエスの声を聞いたのはそういう体験だったのでしょう。
 「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」
 ダマスコへの道でサウロは突然、復活されたイエスの声を聞きます。声は「なぜわたしの弟子を迫害するのか」ではなく「なぜわたしを迫害するのか」というものでした。あの迫害を耐え忍び、命をささげていった殉教者一人一人の中に、そして最初の殉教者であるステファノの中にキリストご自身がおられるということです。サウロはそのキリストに会っていたのです。パウロにとって、ステファノとの出会いがキリストとの出会いを準備したのだと言えるでしょう。

 ですから助祭ステファノは、殉教者であっただけでなく、最期の最期まで信頼と愛を貫いたその生き方をとおして、本当にすばらしい「宣教者」になったのです。
 わたしたち自身がイエスの愛と信頼に結ばれた、本当の意味でのイエスの弟子になること。これがわたしたちの目標です。
 第二朗読にありました。
 「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4・13)
 今日助祭叙階を受けるラファエルさんの上にも、ここに集まるわたしたち一人一人の上にも、その成長の恵みを願って、助祭叙階式を行いましょう。



PageTop