毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

四旬節第5主日 泉雄生助祭叙階式

20160313

この春の助祭叙階式3回目。東京教区では野口助祭に続き、泉助祭が誕生しました!
お祈りくださいました皆様、ありがとうございます。
今後とも新助祭のためにお祈りください。

●四旬節第5主日(泉雄生助祭叙階式)
 2016.3.13カトリック習志野教会にて

 聖書箇所:イザヤ43・16-21/フィリピ3・8-14/ヨハネネ8・1-11

 ホミリア
 今日は助祭叙階式ですが、福音は四旬節第5主日(C年)の箇所でした。
 この箇所を最初に読んだときから、ずっと不思議に思っていたことがあります。「姦通の現場で捕まった」と言われているのに、相手の男はどうしたのか、ということです。男は逃げてしまったのでしょうか。3年前にこの箇所を読んでいて、ふとあることを思いつきました。それはこの女性が実は、不倫の罪を犯した女性なのではなく、レイブの被害者だったのではないかということです。と言ってもわたしの考えは簡単に理解してもらえないかもしれませんね。
 「姦通の現場で捕まった」と書いてあります。しかし旧約聖書を読んでみると、「姦通」とは結婚している女性が夫以外の男性と性的関係を結ぶことであり、その女性がそれに合意していたか、合意していなかったかはまったく問われていないのです。現代なら「不倫の過ちを犯した女性」と「レイプ被害者」ではまったく違います。でも聖書の世界では、区別がありません。「こういう女は石で打ち殺さなければならない」というのは女性の行為が倫理的に許されないからではなく、男性中心の社会の中で夫以外の男と関係した女性(誰の子どもか分からない子を産むかもしれない女性)は存在してはならないと考えられたからです。

 わたしはこの女性がレイプの被害者だったと決めつけているのではありません。その可能性があり、そうだったとしてもここに書かれているとおりの物語が成り立つということを言いたいだけです。ただ「もしかしたらレイプ」と考える理由はいくつかあります。最初に言ったように姦通の現場で捕まったと言いながら、相手の男性が逃げてしまっている点が一つ。当時の男性中心の社会の中では妻は夫の庇護のもとでしか生きることができませんでしたから、そういう立場の女性が夫以外の男性と進んで親しくなるという可能性自体が考えにくいこともあります。「姦通」というのは、男性が他人の妻に強引に関係を迫るか、暴力的に関係を強要することと考えたほうが自然でしょう。さらに言えば、現代の不倫のような話は旧約聖書のどこにも出てこないということもあります。
 夫以外の男性と関係した女性の話で一番有名なのは、サムエル記下11章の物語です。ダビデ王がある日たいそう美しい女性を見て、彼女が自分の部下ウリヤの妻であることを知りながら、彼女を王宮に招き入れ、「床を共にした」という話です。彼女はダビデ王が好きだったのでしょうか。そんなことはありません。王という絶対的な権力者の前に抵抗できなかっただけです。その後、ダビデはウリヤを最前線に送って戦死させ、彼女を正式に妻として迎え入れます。ダビデは王でしたから、それで事件は片付けられてしまいました。もしダビデが王でなければ、夫以外の子を宿したこのバトシェバという女性は石打ちで殺されることになったでしょう。彼女に罪はなかったはずですが、それが当時の社会の掟だったのです。

 今日のヨハネ8章の箇所では、最後にイエスは「これからは、もう罪を犯してはならない」と言います。この言葉は彼女が罪びとであることを前提としているように聞こえるかもしれません。しかし、ヨハネ福音書5章でベトザタの池の側に横たわっていた病気の男性がイエスにいやされる物語でも、イエスはいやされた人に「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない」と言っています。それは「あなたの病気は罪の結果だったのだ」と宣言しているのではなく、神の救いを受けたこの人に対して、「神にしっかりと結ばれて生きていきなさい」という意味の励ましの言葉なのです。8章の女性への言葉も同じ意味に取ることができるでしょう。
 彼女は社会的に抹殺されるべき女性として人々の前に立たされました。もし性暴力の被害者だとしたら、これはまさに「二次被害」そのものです。イエスは彼女を救おうとされました。この女性は神からすればかけがえのない子であり、この女性が生きることを神は望んでいる、イエスはそう信じてこの女性を救い出しました。弱く、傷つき、死に瀕している人間に対するイエスのいつくしみの眼差しを今日、本当に深く味わいたいと思います。

 さて、助祭叙階式なのに、こんな話をしています。泉さんはこれから助祭として、さらには司祭としていろいろな人に出会うことになるでしょう。その中で今日のこの女性に注がれたイエス様の眼差しを忘れないでほしいと思うのです。この人はいい信者、あの人は悪い信者。この人は正しい人で、あの人は罪びと、どうしようもない人間だ。そういう見方で自分に都合のいい共同体を作っていく誘惑がわたしたち司祭にはあります。決してそのような見方に陥らないようにしてほしいと思います。

 助祭ということで思い出すのは、古代の教会でたいへん人気のあった聖ラウレンチオです。
 ラウレンチオは、3世紀、シスト2世というローマ司教(教皇)に仕えた7人の助祭のうちの一人でした。当時の助祭の大切な仕事は教会財産の管理でした。それは貧しい人を助けるという助祭のつとめに直結していたからです。ラウレンチオは特にこの財産管理という面で働いていたようです。当時のローマ帝国はまだキリスト教禁教時代で、大きな迫害が起こり、シスト2世と他の助祭たちは捕らえられて殉教しました。そのとき、ラウレンチオには何日かの猶予が与えられました。それは教会財産をローマの役所に差し出す、という命令を果たすための猶予期間でした。ラウレンチオは戻って教会の財産を処分しました。しかしそれをすべて貧しい人たちに分け与えてしまいました。役所に出頭するラウレンチオの後ろには、おおぜいの貧しい人々が彼を慕ってついてきました。そして役人が「教会の財産はどこにある」と尋ねたとき、ラウレンチオはそこにいた貧しい人々を指して、「この人々が教会の宝です」と答えました。役人は怒って、すぐさま、ラウレンチオを火刑に処したと伝えられています。

 貧しい人、社会的に弱い立場の人、人間的に見れば何の役にも立たないように見られていた人、その人々を助祭ラウレンチオは「宝」と見ました。これがキリスト教のメッセージの核心です。ラウレンチオはその生涯と死をとおして、この最も大切な福音を伝えました。これが助祭の示すべき模範なのです。出会う人すべてをかけがえのない神の子、神の愛する子と見て、関わっていくこと。
 助祭職の本質は典礼上の役割ではありません。助祭は単なる宗教団体職員でもありません。すべての人、特に貧しい人、弱い人、病人に対するイエスのいつくしみを伝える道具なのです。
 今年は「いつくしみの特別聖年」を過ごしています。ちょうどその中で泉さんは助祭に叙階されます。泉さん、ほんとうにこの奉仕の道を神のいつくしみの道具として歩んでいってください。



PageTop