毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

主の晩さんの夕べのミサ

20160324

今年は聖なる三日間、関口カテドラルでの典礼奉仕です。
写真は司教館のチャペルにある最後の晩さんのレリーフ(Cecco Bonanotte作)です。

●主の晩さんの夕べのミサ
 出エジプト12・1-8、11-14/一コリント11・23-26/ヨハネ13・1-15
           2016/03/24関口カテドラルにて

 わたしが神学生のころですから大昔の話です。「聖体論」という授業がありました。ミサ・聖体について神学的な理解を深めるための授業です。先生は神学者として有名なネメシェギ神父さんという方でした。わたしは授業で熱心にノートを取り、レポートの評価も良かったのに、オラーレ(口頭試験)の中である質問の答えに詰まり、成績はBでした。そのころ授業でわたしがとっていたノートは「幸田ノート」と呼ばれて、他の神学生たちはそれを使って試験準備をしました。他の神学生はAを取っているのに、なぜわたしがB? いまだに根に持っています。いや忘れられないですね。
 その聖体論の授業の中でネメシェギ神父さんが言った言葉で、今も思い出す言葉があります。「理想的なミサというのは、2000年前の、イエス・キリストの最後の晩さんにできるだけ近いミサだ」という言葉です。

 どうでしょう。皆さん、あの晩の食事の光景が思い浮かべてみてください。
 どんな部屋だったでしょうか?「高間」と言われます。このカテドラルのような巨大な空間ではなく、もっとこじんまりとした部屋だったのでしょう。あの晩、イエスと弟子たちはどんな格好をしていたでしょうか? ガリラヤから旅をしてきて、着の身着のままのような格好だったのではないでしょうか。こんなきれいな祭服を着ていたのではありません。その食卓にはどんな料理が並んでいたでしょうか? 貧しい食事だったかもしれませんが、過越の食事ですから、小羊の料理や先祖の苦難を思い出すための苦菜も並んでいたことでしょう。今はあまりにも儀式化されてパンとぶどう酒だけですね。
 今日のわたしたちのミサとずいぶん違います。でもわたしたちは何とかあの最後の晩さんに近づきたいのです。その記念を行いたいのです。今夜は主の晩さんの夕べのミサですから、特別にそうです。

 ただし本当に大切なのは、形をまねることではなく、心を受け取ることでしょう。
 ルカ福音書にこういう言葉があります。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」(ルカ22・15)
 イエスにとってあの食事は、その後で逮捕されてしまったのでたまたま最後になってしまった、というような食事ではなく、逮捕される前にこの食事だけはしておきたいという、はっきりとした特別な思いを込めた食事だったのです。
 その夕食のとき、イエスが弟子たちの足を洗ったことをヨハネ福音書は伝えています。このミサの福音はその場面でしたし、今日のミサの中では洗足式を行います。
 身をかがめて、小さな姿、奴隷の姿を取り、徹底的に仕える者となる。「わたしが来たのは仕えられるためではなく、仕えるため。多くの人のあがないとして自分のいのちを与えるため」マルコ福音書(10・45)の言葉です。これがわたしの生き方だ。わたしがそうしたのだからあなたがたもそうしなさい。足を洗い合いなさい。そう言われたイエスを思い出し、本当にわたしたちが互いに支え合い、助け合う者となる。

 パンとぶどう酒も同じことを表しています。
 小さく小さくなって、ご自分を食べ物として与え尽くす。そのキリストの思いが込められたのが、このパンでありこのぶどう酒です。
 「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこれを行いなさい」「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこれを行いなさい」(一コリント11・24、25)
 第二朗読で「わたしの記念として」ということをパウロは強調しています。当時のコリントの教会の問題が背景にありました。当時は主の晩さんと呼ばれたミサとキリスト者の会食が結ばれていました。一緒に食事をするのですが、先に来た人が他の人の分まで食べてしまい、後から来た貧しい人に食べ物がない。飢えている人がいるのに、そのことに無関心なまま、主の晩さんが祝えるのか。形式的に立派なミサをしていても、それが本当に主の晩さんを祝うことになるのか? パウロの問いかけは今のわたしたちにとっても大きな問いかけです。聖体はイエスの愛の記念です。だからすべての人と必要なものを分かち合って生きること。これはミサの根本的なテーマです。世界規模の格差と貧困の問題があります。身近なところでも貧困の現実があります。十分な食事を摂ることのできない子どもたちがわたしたちのそばにいます。
 人の痛みや苦しみや欠乏に無関心なままでミサを祝うということはありえません。わたしたちに仕えるこころ、愛するこころ、助け合い、分かち合うこころがなければ、ミサは単なる儀式になってしまうのです。

 あの最後の晩さんのイエスの思いを受け取ること。これがミサです!
 聖体拝領は、カトリック信者の特権ではないのです。フランシスコ教皇は「聖体は完全な人のための褒美ではなく、弱い者のための薬であり食べ物」とおっしゃいました(『福音の喜び』47)。愛の足りないわたしたちが、このパンをイエスさまご自身と信じていただく。それはわたしたちが何とか少しでもイエスの愛に近づきたいと思うからです。
 その思いと願いをもって、きょうわたしたちは主の晩さんの食卓に近づきましょう。





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