毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

聖金曜日・主の受難

20160325

●聖金曜日・主の受難
 イザヤ52・13~53・12/ヘブライ4・14-16、5・7-9/ヨハネ18・1~19・42

                    2016.3.25関口カテドラルにて
 ホミリア
 神父になって最初に働いた教会に一人の男の子がいました。小学校1年生で初聖体のクラスに通って来ていました。わたしは当時、まだ若い助任司祭でした。その子は教会に来て、助任司祭を見ると走ってきて、飛びかかってきて、膝蹴りを入れてくる、とても元気な子でした。初聖体クラスでもふざけてばかりいてシスターを困らせていたようです。わたしは「この子、大丈夫かな。神様のこと、イエス様のこと少しは分かっているのかな」と心配していました。
 ある時、その子のお母さんと話をする機会がありました。彼女はこう言いました。
 「あの子はあんなふうに元気にみえますけれど、小児喘息で、夜中に発作を起こすととても苦しがるんです。そんなとき、あの子はベッドの上にうずくまって、枕元の十字架をじっと睨むように見ているんです。そのイエス様の姿を見ながら自分の苦しみになんとか耐えているんでしょう。それがあの子なりの信仰なのだと思います」
 わたしは自分がその子のことを理解していなかったことに気づかされました。その子はわたしなんかよりもずっとイエス様のこと、イエス様の受難と十字架のこと、分かっていたんですね。恥ずかしく思いました。

 自分の苦しみの中から十字架のイエスを見つめる。そのことの大切さを今日、特に感じています。
 第一朗読はイザヤ53章の苦しむ主のしもべの箇所でした。苦しみをとおして人々にゆるしといやしをもたらすこのしもべとは誰のことでしょうか?預言者自身の体験だという人もいます。イスラエルの民の苦難の意味を語っているのだという人もいます。来たるべき救い主のことだという人もいます。もちろん、キリスト教は、この主のしもべを十字架のイエスを指す預言だと受け取ってきました。その通りです。でもただイエスだけのことではない。イエスの十字架の苦しみは、ある面でさまざまな人の苦しみとつながっているということも大切だと思います。

 詩編を読むとはやり同じように感じます。受難の主日に歌われた詩編22。その冒頭の言葉「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」は十字架のイエスの叫びですが、同時に旧約時代から現代に至る多くの人の苦しみの表現でもあります。きょうの答唱詩編、詩編31にはこうありました。「敵はみなわたしをあざけり、まわりの人はわたしをのけものにする。親しい友はわたしを恐れ、会う人は避けて背を向ける。わたしは死んだ人のように忘れられ、こわれた器のようになった」これも十字架のイエスを思わせます。と同時に、これはわたしたち自身の苦しみの描写とも言えるのではないでしょうか。

 受難朗読はヨハネ福音書の受難物語でした。ヨハネ福音書の中に十字架のイエスの言葉はいくつか伝えられていますが、中でも印象的なのは「渇く」という言葉でしょう。これもおそらく詩編が背景にあると考えられます。詩編22・16にも「渇く」という言葉がありますが、詩編63は冒頭から「渇き」を訴えています。
 「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています」。
 この渇きも、すべての人の渇きにつながっています。水に渇くだけではなく、神に渇き、救いに渇き、愛に渇くすべての人の渇きの叫びなのです。

 第二朗読はヘブライ書で、イエスが「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」と言います。別の箇所では、「すべての点で兄弟たちと同じようにならなければならなかった」とも言われています。さらに別の箇所では「彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない」とあります。
 イエスはわたしたちすべての者のどうにもならない苦しみを、弱さを、痛みを、悲しみを十字架の上で担ってくださった。そのイエスの姿を今日、見つめましょう。本当にわたしたちの友として、兄弟として、わたしたちの苦しみをとことん一緒に担ってくださるイエスの姿を本気で受け取ることができたら、そこにきっと希望が見えてきます。
 苦しみはただの苦しみで終わらない。
 絶望はただの絶望で終わらない。
 死はただの死で終わらない。

 この復活の希望の光は十字架の中にこそ輝いているのです。



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