毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第2主日・神のいつくしみの主日

20160404

●復活節第二主日
 (使徒言行録5・12-16/黙示録1・9-11a、12-13、17-19/ヨハネ20・19-31)
                   2014.4.3関口カテドラル
ミサのはじめに
 復活節第二主日。復活祭からの八日間の特別な祝いの期間を結ぶ主日です。ヨハネ・パウロ二世教皇は2000年、この日に「神のいつくしみの主日」というサブタイトルを付けることを決めました。聖週間と復活の八日間という教会の暦の頂点を祝ったわたしたちが、本当にその中に示された神のいつくしみを深く味わうという意味で受け取ればよいのではないかと思います。今年は「いつくしみの特別聖年」の中でこの主日を迎えていますので、特に今日、神のいつくしみを深く味わいながら、このミサを祝いたいと思います。

ホミリア
 山本神父が先週の送別会でこの関口教会を離れ、西川神父がまだ着任していないので、ちょっと空白期間が生じてしまい、わたしが穴埋めで今日のミサをすることになりました。補佐司教って日曜日に行く教会がない日があったりするので、穴埋めでも使っていただければありがたいです。空白期間と言いましたが、本当は空白期間ではありません。ミサの中心にいてくださるのは復活したキリスト。そのことを今日、深く味わいたいと思います。

 復活したイエスは、神の永遠のいのちを生きている方で、時間と空間を超越し、本来は目に見えない方です。神様が目に見えないと同じように、復活のイエスは目に見えません。しかし、聖書にはイエス様が弟子たちに姿を現したという話がいくつも伝えられています。聖書の話を読むと復活のイエスは目に見えるというのが普通だと錯覚するかもしれませんが、本当は目に見えないのが普通で、目に見える出現というのが特別なことなのです。今日の箇所もその出現の出来事を伝える典型的な話です。この「出現」という出来事は何のためか、それは一言で言えば、イエスが生きておられるということを、弟子たちに悟らせるためでした。

 弟子たちはイエスが十字架で死んでしまった後、本当にどん底の状態にありました。マグダラのマリアのようにただただ泣いている弟子もいました。最後までイエスについていくことができず、皆イエスを見捨てて逃げてしまった、という自責の念は男の弟子たちに共通のものだったでしょう。自分たちはイエスの弟子として失格者だと感じていたはずです。また今日の箇所の弟子たちのように、先生であるイエスがあんな目にあったのだから自分たちにも迫害が及ぶかもしれないと考えて、不安と恐怖の中でちぢこまっていたという面もありました。あるいはエマオに向かった二人の弟子のように、イエスにも他の弟子たちにも失望して、仲間から離れ、故郷に帰っていこうとしていた弟子もいました。
 復活されたイエスの出現という出来事は、この弟子たちをどん底から立ち上がらせる出来事だったのです。

 今日の箇所で、復活したイエスは、弟子たちを責めません。「あなたがたに平和」と言い、弟子たちを、自分を見捨てて逃げた弟子たちを再び弟子として受け入れ、派遣します。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。復活したイエスとの出会いは、弟子たちにとって本当に大きな「ゆるし」の体験だったのです。だからこそ弟子たちの使命の中心は「ゆるし」だと言われるのでしょう。簡単な使命ではありません。そしてだからこそ、その使命を果たすために「聖霊」が与えられるのです。

 トマスにとってもイエスとの出会いは大きなゆるしの体験でした。トマスはイエスが受難に向かわれる時、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言っていた弟子です(ヨハネ11・16)。でも彼はイエスの受難を目の前にして逃げ出し、イエスの死後は仲間から距離を取っていたようです。そのトマスにイエスが生きておられるという知らせが届きます。彼は半信半疑で他の弟子たちのところに戻ってきます。そしてそのトマスにも、イエスは姿を現してくださるのです。イエスは来て、「あなたがたに平和」と言い、「信じないものではなく、信じるものになりなさい」と言われます。お前のこともわたしは大切に思っている、お前もわたしの弟子なのだ、イエスはトマスに向かってそう言っているのでしょう。彼にとってもイエスとの出会いは、本当に大きなゆるしの体験でした。聖書にはありませんが、トマスはインドまで行って宣教したと伝えられています。
 わたしたちも今日、使徒たちが、トマスが受け取ったイエスの愛とゆるしを受け取り、その愛とゆるしを伝えるものになりたい。これがわたしたちキリスト者の使命です。

 復活祭の日、インドの隣のパキスタンでキリスト教徒を狙った自爆テロが起きました。70人以上が死に、その中には多くの子どもたちが含まれていました。憎しみや暴力が、復活の喜びを覆い尽くすかのような世界の現実があります。それから一週間、わたしは、ずっとマザーテレサのことを思い出しています。ヒンズー教、イスラム教、仏教などが圧倒的に強いこのアジアの中で、キリスト者として生きるということはどういうことなのか、マザーテレサの生き方はそのことをわたしたちに問いかけ続けていると思います。

 マザーテレサは、だれからも顧みられず、路上で倒れ、ただ死を待つだけのような人を引き取り、最後まで手厚くお世話をするところからあの活動を始めました。最後までそばにいて、その人がイスラム教ならイスラム教の祈りを、ヒンズー教ならヒンズー教の祈りを唱えてあげる。あなたは決していらない人ではなく、神様から見て大切な存在なのだ、そのことをその人が息を引き取る最後の瞬間にでもわかってほしいと願いながらそうしたのです。本当にイエスの愛を生き、一人一人の人間を、どんな宗教であれ、どんな身分であれ、その一人一人の神の子としての尊厳を尊重すること。暴力と憎しみとテロに打ち勝つ道はこれしかない。イエス・キリストが十字架の上で、憎しみと暴力を受け止め、愛とゆるしによってその憎しみと暴力に打ち勝ったように。

 「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わす。聖霊を受けなさい」
 今日、わたしたしにもイエスはそう呼びかけています。


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