毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

三位一体の主日

20160522

高円寺教会でのミサの説教メモです。
(写真はぜんぜん関係ありません。高円寺教会で写真を撮り忘れましたので…)

●三位一体の主日(箴言8・22-31/ローマ5・1-5/ヨハネ16・12-15)
                    2016/5/22高円寺教会
 ホミリア
 わたしが司祭になったのは今から31年前1985年のことで、最初に助任司祭として派遣されたのが高円寺教会でした。主任司祭は寺西神父でした。最初の教会ですから強烈な印象がありましたし、今もこうしてこの教会に来ると自分の原点に立ち返るような思いがあります。今も未熟ですが、当時はもっと未熟でいろいろな失敗もしました。でも本当にこの教会で育てられたと思います。
 聖書のクラスがありました。寺西神父のクラスのほうが内容がいいに決まっていますが、助任司祭のクラスに出てくださる方も結構いました。その方々は、今にして思えば、助任司祭のクラスに人が集まらないとかわいそうだと思い、若い新司祭を応援するつもりで出席してくださっていたのでしょう。

 あるご高齢の女性はわたしの話の途中、居眠りをすることが多かったのですが、そのあとの質問や分かち合いの時間になるとよくお話をしてくださいました。あるとき、その方がこうおっしゃいました。
 「昔はいろいろな教会の教えを聞いて難しいと思っていたけれど、公会議の後、『大切なのは愛だけだ』と聞きました。それでそれならわたしにもわかると思いました。それから教会に来るのが楽しくなりました」
 なるほどと思いました。第二バチカン公会議から20年がたっていました。その20年の間に教会は大きく変わってきました。特に聖書を学問的にも霊的にも改めて深く読むようになり、その中でイエスの生き方と教えの中心はなんなのか、本当に明らかになってきたと思います。

 それからさらに30年たちました。今のフランシスコ教皇の言葉と行動を見ていると、本当にイエス・キリストの福音とはなんなのかがはっきり示されていると思います。それは今年のいつくしみの特別聖年のテーマでもありますが、神はいつくしみ深い方であり、わたしたちはその神のいつくしみを知った人間として、出会うすべての人にそのいつくしみを伝えるものでありたい、ということです。性的マイノリティであっても、離婚して再婚した人であっても、障害者、難民、移住者、さらに犯罪者であっても、一人一人の人間は神から愛されたかけがえのない存在であり、わたしたちはキリストの弟子としてその一人一人を大切にしていきたいのです。
 今日の福音で「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とあります。わたしたちはイエス・キリストから2000年もたって、でもやはり、聖書に伝えられたイエスの姿を見つめ、聖霊に導かれて、イエスのことを本当にわかることができるようになったのだと思います。いやキリスト教は最初からそのイエスの教えに忠実に生きたいと願って歩んできました。しかし、いろいろな面で道を踏み外したことも事実です。

 『スポットライト』という映画が今公開されています。ごらんになった方も多いでしょう。司祭による児童性虐待が数多く起こっていたことを告発したボストングローブという新聞の記者たちの物語です。彼らが記事を書こうとしたのは2001年、今から15年前のことでした。秘跡を行い、カトリックの教理を教えていた司祭の中にそういう形で子どもたちを傷つけていた人がいました。しかも教会は傷つけられた人々を守るのではなく、加害者である司祭を守るほうに動いてしまった。本当にひどい話です。
 でもだからこそ、イエスの福音は何なのかということがはっきりとしてきたのだと思います。どんなに荘厳なミサを行い、どんなに立派な説教をしてもそんなことはイエスの福音となんの関係もない。わたしたちが本当に人を、特に弱い立場の人を大切にできるかどうか、それだけが問われていることです。
 わたしたちの教会は、本当にそのことを生きることができているか?できていません。でも3年前にフランシスコ教皇が選ばれ、教皇は本当にそういう教会になろうと呼びかけていると思います。わたしたちはその呼びかけに答えて歩んでいきたい。

 現実の世界はたいへんです。毎日、ニュースを見ていると生きているのがいやになるという人がいました。私もある程度同感です。沖縄でまた米軍関係者によるひどい事件が起こりました。騒音トラブルのようなささいなことから人を殺してしまうような事件も多発しています。欲望が肥大化して、お金や暴力でその欲望を満たそうかとするようなことが多すぎます。恐怖と絶望に駆られたテロも戦争も跡を絶ちません。
 だからこそ、わたしたちはイエスの福音をしっかりと受け止め、聖霊の導きに従い、神である御父の愛を生き、あかししていきたいのです。この時代だからこそ、本当にわたしたちキリスト者の信仰が、愛が問われています。


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