毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第10主日ミサ(原町ベース4周年)

20160605

カリタス原町ベース開設4周年を迎えました。
感謝の集いに先立ち、関係者は原町教会で早朝ミサをささげました。
そのときの説教メモです。

●年間第10主日
 (列王記上17・17-24/ガラテヤ1・11-19/ルカ7・11-17)
                            2016/6/5原町教会
説教メモ
 今日の福音はイエスがナインという町でやもめの一人息子をよみがえらせる話。これを読んでわたしの感じた3つのことを分かち合いたいと思います。

(1) 共感compassionということ。
 「あわれに思い」はギリシア語で「スプランクニゾマイ」。「スプランクナ(内蔵)」という名詞からできた動詞で、目の前の人の苦しみを見たときに「はらわたが揺さぶられる」ということを表す言葉。
 「見て、はらわた揺さぶられて、近寄って」この三つの動詞が並んで現れる箇所はルカ福音書の中で三回あります。15章の放蕩息子の父のたとえ。10章のよきサマリア人のたとえ。そしてこの箇所。三つの動詞は、愛の三点セットと言えそう。愛するということの核心に、この「見る」「はらわた揺さぶられる」「近寄る」ということがあるといえるのではないか。
  ここでは「もう泣かなくともよい」とイエスは言います。わたしたちはどうでしょうか? 辛い思いをしている人に向かってむしろ、「泣いていいんですよ」ということが多いのではないか。しかし本当に深い共感をもって「もう泣かなくてもいい」と言うこともあるのかもしれません。大切なことは「泣いていい」と言うか、「泣かなくていい」と言うかではない。何を言うにせよ、本当に寄り添って、共感の心をもって言いたい。問われていることは、わたしたちが本当にどこまで寄り添えているか? 共感の心を持っているか?

(2) ナインの町の共同体の素晴らしさ
 一人息子を失った悲しみと絶望の中にあるこの女性に、町の人が大勢付き添っていた。この女性の悲しみ、痛みに共感しようとするコミュニティーの姿はすばらしい。そして彼らは、悲しみにだけでなく、喜びにも共感している。
 息子を返してもらったこの女性だけがいい思いをしてラッキー、というのなら嫉妬されたかもしれない。でもナインの人々はそうではなかった。人々の感じたことは「神は民を訪れてくださった」ということ。本当に神様は苦しむすべての人と共にいてくださる。そう感じて賛美し、だから一緒に喜ぶことができた。その神の働きに心を向けることが大切。
 南相馬や浪江にもラッキーな人もいれば、そうでない人もいる。そこには人と人との分断という厳しい現実がある。でもその中で神が共にいてくださることを見つめたい。そしてわたしたちも本当に泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶ者でありたい。

(3) 貧しい人はどこにいるのか?
 イエスはナインの町でこの一人のやもめに目を向けた。もっとも貧しく、もっとも辛く、助けを必要としている人。
 わたしたちはどう? 被災地の人すべてに寄り添いたい。もちろんそう願っている。でもわたしたちは「貧しい人に福音を伝える」というイエスの使命を生きたいとも願っている。どこに一番苦しんでいる人がいるのか、どこに一番弱い立場の人がいるか、そのことに敏感でありたい。
 これもわたしたちがいつも忘れないでいたい姿勢です。

 今日もこの福音のイエスの姿を見つめ、このミサの中で生きておられるイエスを祝い、このイエスと共に歩みたい。


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