毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第12主日@真鶴教会

20160619

20160619b

神奈川県の真鶴教会。
初めて行きましたが、ここも聖堂から海が見える小さな教会です!
ですから「海の星(聖マリア)」っていう名前がお似合いですね。

●年間第12主日
 (ゼカリヤ12・10-11, 13・1/ガラテヤ3・26-29/ルカ9・18-24)
                       2016.6.19真鶴教会
 説教メモ
 「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。それは今のわたしたちにとってどういう意味でしょうか。自分の十字架とは何か、いろいろなことが考えられるかもしれません。何が正解か、というよりも、わたしたち一人一人が問われていることであり、自分なりにイエスに十字架に結ばれて歩んでいくことしかない。
 三つのことをヒントとしてお話ししたいと思います。

 一つは、この十字架を「自分自身の苦しみ」として受け取ることです。先週、司教総会の間に東京・四谷のイグナチオ教会で公開勉強会がありました。「障害者差別解消法」について学ぶというテーマでした。この法律はこの四月から日本で施行されるようになりましたが、教会にはどのような課題があるか、司教がまず学ばなければならないということになりました。そして司教だけではもったいないというので、公開勉強会の形をとりました。そこで何人かの障害者の方の声をじかに聞くことができました。難病とか内部障害で外からはわかりにくい障害もある、周りの人から理解されない障害の辛さということを教えられました。
 わたしたちの人生にはいろいろな苦しみがあります。それを自分で選ぶことはできません。お店でアクセサリーを選ぶように、この十字架は小さすぎ、これは大きすぎ、このくらいがわたしに適当な十字架かしら? 十字架ってそんなものじゃないですね。否応無しに自分の人生の中で降りかかってくる。押し付けられてくる。それが十字架。
 人に言えない苦しみもありますし、人には分かってもらえない苦しみもある。それは本当につらいことです。でもイエスだけは分かってくれる。イエスの十字架はわたしたちすべての苦しみを引き受けてくださったこと。だからわたしたちの苦しみはあの十字架のイエスの苦しみに結ばれている。そう感じることができるでしょうか。このわたしの苦しみをただの苦しみと受け取るか、わたしの十字架と受け取るか。もし自分の苦しみをイエスの十字架の苦しみとつながるものだと感じることができれば、そこに何かの力と励ましを感じることができるのではないでしょうか。

 二つ目のこととして、この十字架を「愛とゆるし」のしるしとして感じることができるのではないかと思います。
 ルカ福音書でイエスが十字架に磔にされたとき、イエスはご自分を十字架につけた人のために祈ったと伝えられています。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは自分が何をしているか知らないのです」。イエスの十字架は愛とゆるしの極限の姿でした。その愛とは、ゆるしとは、相手がどんな人であれ、罪人であれ、自分に敵対する人であれ、自分を迫害する人であれ、それでもわたしはあなたの滅びを望まない。それでもわたしはあなたを尊重し、あなたの存在を否定しない。十字架の場面だけでなく、その愛とゆるしの姿勢はイエスの生涯全体を貫いていました。
 簡単じゃないですよね。テロがあったり、凶悪犯罪があったり、身近なところでもひどいことがいろいろ起こる。それでもわたしたちキリスト信者は愛とゆるしを貫こうとします。
 フランシスコ教皇は今年3月19日に使徒的勧告『Amoris Laetitia(愛のよろこび)』を発表されました。まだ日本語にはなっていませんが、これについても司教総会中に学ぶ機会がありました。昨年の10月に「家庭」をテーマにしたシノドス(世界代表司教会議)が開かれ、それに対する答えとしてこの使徒的勧告は書かれています。この中で教会が伝統的に罪としてきた同性愛や離婚者・再婚者に対して教皇がどういう態度を示すかが注目されていました。でもフランシスコ教皇は◯か×かのような答えを出しませんでした。でもはっきりおっしゃっているのは「誰も排除してはならない」ということ。これがまさにイエスの十字架に表れたことだと言えます。
 どんな人も尊重して、どんな人にも居場所があるような教会になっていくこと。信者の一人一人がそういうイエスの愛とゆるしを自分の場で生きること。
 「日々、自分の十字架を背負って」というのは、一回限りの人のために死ぬというような愛ではなく、イエスが日々、実践していた愛とゆるしに結ばれて生きること。これが「日々、自分の十字架を背負って」イエスに従っていくことだと言ったらいいかもしれません。

 もう一つ、思うのは「辱め」ということです。
 「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」というのは、十字架にかけられて死ぬというよりも、そこに向かう道のりのことを指しています。イエスもそうでしたが、十字架刑に処せられる人は、自分がはりつけになる十字架を背負って、街中を歩かなければなりませんでした。見せしめのために、あれは犯罪人だと、誰もが見ている中を歩かされるのです。人々からの軽蔑の視線を受けることは辛いですね。イエスの場合、周りの人の目は、犯罪者という見方ではなかったかもしれません。むしろ「メシア(救い主)」だと名乗っていたのに、ただの無力な人間にすぎない、という失望と軽蔑の視線でしょう。その嘲りの視線を受けながら歩むこと。それが「日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」という言葉の一つの面ではないかと思います。それはわたしたちの現実と結びつくでしょうか?
 もしかしたらいじめや虐待やパワハラのようなことで、実際にそういうことを感じている場合もあるかもしれません。そうでなくても、他人からどう見られるか、ということをいつも心配して、戦々恐々としているわたしたちがいるかもしれません。
 十字架のイエスは人々の目からは、本当にみじめな、見捨てられた姿でした。でもイエスは人からどう見られるか、ということを超えて神への信頼を貫きます。ルカ福音書が伝える十字架のイエスの最後の言葉は、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」という言葉でした。
 わたしたちも日々の十字架をとおして、本当に神に希望を置き、神だけに信頼して歩み続けるように、イエスから呼びかけられているではないでしょうか。

 「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」本当に大きなイエスの呼びかけです。わたしたちが一人一人は、弱く頼りない人間にすぎませんが、そのイエスの呼びかけに応える日々生きることができますように。

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