毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第16主日ミサ@小田原教会

20160717

小田原教会の聖堂は建ってから80年だそうです。
古い木造の聖堂ってやっぱりいいですね。

●年間第16主日のミサ
 聖書朗読箇所:創世記18・1-10a/コロサイ1・24-28/ルカ10・38-42
                       2016.7.17カトリック小田原教会
 ホミリア
 今日の福音のマルタとマリアという姉妹の物語を聞いて皆さんいろいろなことを感じるでしょう。わたしが今回、この福音を読んで感じたことを分かち合いたいと思います。想像も入っているかもしれませんが・・・。

 「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」これは誰からも褒められることだったでしょうか。そうではありません。当時は圧倒的に男性中心の社会でした。偉い先生の話を聞くのは男性がすべきこと、あるいは男性の特権であって、マリアのように女性が先生の話を聞いているというのは異様なのです。周囲にいた男性から、マリアは非難の視線を浴びていたでしょう。そして女性であるマルタから見てもマリアのしていることはとうてい理解できません。女性なら自分と同じようにイエスや男の弟子たちをおもてなしすべきなのです。
 その中でイエスはマリアをかばいました。イエスは神の国について語っていました。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6・20)という神の国の福音に耳を傾けていたマリアを、イエスは無言で受け入れていました。そしてマルタの非難からも守ってくれました。マリアは本当にイエスによって自分は認められている、と感じたことでしょう。

 一方のマルタは、どうでしょうか。マルタは「自分はやるべきことをちゃんとやっている」と考えていました。マルタにはプライドがあります。それはどこから来るかと言えば、マリアとの比較で自分がちゃんとやっている、というプライドだったのではないでしょうか。それで仕事をしないマリアを見下し、イエス先生も自分を評価してくれるのが当然だ、と思って不満をぶつけてしまいます。本当に自分が喜んでやっていたら、自分の奉仕に喜びを持っていたら、不満を抱いたり人を見下したりする態度にはならなかったのではないでしょうか。これは厳しい見方かもしれません。でもマルタは本当の意味で自分を良しとすることができていないように感じます。
 そしてイエスはそのマルタをも否定しないのです。「マルタ、マルタ」イエスはきちんとマルタのほうを向いて、親しみを込め愛情を込めて語りかけます。イエスはマルタのしている奉仕を否定しているのではありません。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」マルタはこのイエスの言葉を聞いてどう思ったか、福音書には書いてありません。でもマルタはイエスに否定されたと感じたのではなく、本当に自分も認められていると感じたのではないでしょうか。

 「自己肯定感」という言葉があります。「自尊感情」とも言います。似たような言葉がいろいろあって、「自尊心」、「プライド」というといい意味でも悪い意味でも使われます。いい意味もあるのですが、自尊心はうぬぼれかもしれませんし、プライドは優越感で人を見下すことになるかもしれません。そんなことではなく、深いところで「わたしはわたしでいいのだ」という自分を肯定する思い、これが自己肯定感、自尊感情と言われるものです。とても大切だと言われています。それはどこから来るのか。心理学的には、親の子どもに対する態度、大人の子どもに対する接し方で決まると言われるのでしょう。
 でも本当の自己肯定感、自尊感情というのは、神様からしか来ないのです。なかなか分かってもらえない気もするのですが、今日の福音を読みながらどうしてもそのことを言いたいと思いました。「マルタは◯、マリアは×」。逆に「マリアは◯、マルタは×」。人間的にはそういう評価が当たり前。しかしイエスはそうでありません。イエスはマリアに対しても、マルタに対してもこの自己肯定感、本当の意味での自尊感情を高めるような関わりをしているのではないでしょうか。「あなたはあなたでいい」本当にそう言えるのは神様だけ。

 イザヤ書の43章4節にこういう言葉があります。
 「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」
 神がイスラエルの民に向かって言う言葉です。紀元前6世紀、国は滅び、主だった人々はバビロンに強制連行され、本当にぼろぼろになったイスラエルの民に向かって神はこうおおせになります。それでもあなたはわたしの目にはとうとい!宗教の根本はそこに立てるかどうかです。本当に神の目にわたしはとうとい者。そこに立った時、すべての人に対する尊敬と尊重の心が生まれます。
 自分の宗教を誇りとし、自分は何々教徒だというプライドを持って、他の宗教を否定する。それはこの本当の意味での自己肯定感を神からいただいていないからではないでしょうか。むしろ自分が社会の中で取り残されている、社会に受け入れられていない、そういう不満や怒りから、自分は何国人であるとか、何教徒であるというアイデンティティにすがる。そこからヘイトスピーチとか無差別殺人とか・・・これは本当に危ないです。

 何を言っているのでしょうか。根本的にわたしたち人間は、神から来る自己肯定感・自尊感情を持たなければ、変なプライドや優越感に頼って、とんでもないところに落ちて行ったり、敗北感で自暴自棄になったりしてしまうのではないか、そういうことを言いたいのです。
 もちろんわたしたちは100%の自己肯定感を持つことはできないと思います。自己肯定と自己否定、両方持って生きているのがふつうでしょう。でも本当に神様から来る自己肯定感、イエス様から来る自己肯定感をどこかできちんと受け取りたいのです。「わたしの目にあなたは貴い」「あなたはあなたでいい」イエスは今日の福音をとおしてわたしたちひとりひとりにそう語りかけてくださっているのではないでしょうか。


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