毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第17主日のミサ@秦野教会

20160724

いつもながらの説教メモです。
初めてのカトリック秦野教会。
いろんな国の人が集まっているステキな雰囲気の教会でした。
聖堂の外まで人があふれているミサって久しぶりだったかも…。

●年間第17主日
 聖書箇所:創世記18・20-32/コロサイ2・12-14/ルカ11・1-13
                      2016/7/24秦野教会
 ホミリア
 今日の福音はイエスが弟子たちにいわゆる「主の祈り」を教える箇所。「主の祈り」は聖書の中で2つの箇所で伝えられていて、もう一つの箇所はマタイ福音書6章。わたしたちがいつも唱えている主の祈りはマタイの形に近い。皆さん、よく親しんでいると思います。でも難しいですね。特に難しいのはゆるしの部分ではないでしょうか。
 「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」
 今日のルカ福音書では、「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」
 「わたしたちの罪をゆるしてください」これはよく分かります。でも「わたしたちは人をゆるします」とはなかなか祈りにくい。ゆるせない現実。日常的に身近な人との関係の中でもゆるしは難しいですけれど、特に凶悪な犯罪も、テロもあります。そんな中で「ゆるします」というのはとても難しいと感じるでしょう。

 先日、ある会合で、このゆるしのことを話し合う機会がありました。死刑制度について、日本のカトリック教会として何が言えるかというけっこう微妙な問題でした。ご存知でしょうか。日本ではいまだに死刑制度が続いていますが、ヨーロッパの多くの国でなくなりつつありますし、ヨハネパウロ2世以降の教皇たちもはっきりと死刑廃止の傾向を支持しています。そこにはやはりキリスト教的な「ゆるし」の考えが大きく影響していると考えられます。でもこれって、日本で伝えるのはむずかしい。
 日本ではよく「被害者感情として、極刑を望むのは当然」というような言い方もされます。連続殺人のような本当にひどい犯罪のことを考えた時、「ゆるせない」というのは当然のこと。でも本当に死刑しかないのか、ある被害者遺族の方は「ゆるせない。でもだからこそ、生きて償ってほしい」と言いました。

 その会合の中で、ずっと死刑廃止の運動に関わってきた神父がこう言いました。
 「キリスト教がいう『ゆるし』とは祈ること。わたしたちは主の祈りで『ゆるします』と祈る。それは『加害者がほんとうの意味で回心するように』そして『わたしたち自身が憎しみや復讐心から解放されるように』という祈りです」
 少し納得できるように感じました。ゆるすかゆるさないか、二者択一ではなく、ゆるしとは、長いプロセスというか、「歩み」なのだということです。一気にゆるすことなんてできないのが当然。それでも切り捨てて終わりにしてしまうのではなく、相手の回心を祈り続けること、自分のいやしと解放を祈り続けること、これがゆるしの道です。簡単じゃありません。でもだからこそ祈り続けるのです。
 主の祈りの中で、「わたしたちも人をゆるします」と祈るとき、そう思ってみたらいいのではないでしょうか。「ゆるせません。でも神様、あなたのゆるしを信じて、ゆるしに向かう祈りを続けていきたいと思います」

 ゆるしということだけでなく、そもそも祈りというものが長い道のりなのではないでしょうか。神によって、神とともに、神に向かう歩みが祈りの道です。自動販売機のように即座に答えが出るのではない。「今日、晴れるように祈りました。だから晴れました。」もちろんそういうこともあるでしょう。でもそんな祈りばかりじゃないことをわたしたちはよく知っています。祈っても祈っても何も変わらない、どうにもならないような現実があることをわたしたちはいやと言うほど知っています。
 だから祈らなくなるか、それでも祈るのか、そこが大きな分かれ目です。

 イエスは祈ることを教えます。今日のたとえ話では、「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」なんかすごい言い方ですね。神様をいじわるで面倒くさがり屋な友人にたとえている。でも言いたいことは、普通の人でもしつこく頼めば心動かされるかもしれない。まして父である神は必ずわたしたちの祈りを聞いてくださる、ということ。だから祈りなさい、ということですね。
 「しつように頼めば」の「しつように」と訳された言葉は、あまりいい言葉ではありません。「厚顔無恥、恥を知らない、つつしみや節度を知らない」というニュアンスの言葉です。ほんとうに必死の思いで祈り続ける、というイメージでしょうか。これも歩みだと思います。祈りました、でも、ダメだったから諦めましょう、なんていうのではなく、ダメでも無理でも、祈り続ける。その中で何かが変わる。

 今日イエスが約束なさるのは「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」ということです。「聖霊」とは神の力です。祈る中で必ず神様が働いてくださるのです。
 神の力が働くから現実が良い方向に向かって変わるということもあります。現実は変わらなくても、わたしの心が神のみ旨にかなうほうに変えられていくということもあります。そして変わらない現実の中で神が、イエスがともにいてくださることに気づくということもあります。それが起こるのはすべて祈り続けるからです。はっきり言えること、それは祈り続けなければ、神との関わりの中では何も起こらないということです。祈りましょう!

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