毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第19主日のミサ@茅ヶ崎教会

20160807b

今日は暑い日曜日でした!
写真はカトリック茅ヶ崎教会9時のミサ後、侍者をしてくれた子どもたちと一緒に。
ご本人たちからは掲載許可をもらいました。

いつもながらの説教原稿を載せておきます。

●年間第19主日
 聖書箇所:知恵18・6-9/ヘブライ11・1-2、8-19/ルカ12・32-48
                      2016.8.7茅ヶ崎教会
 ホミリア
 今日の福音で一番印象的なところは、主人が腰に帯を締めて僕(しもべ)たちに給仕してくれるというところでしょう。いくら僕がよく働いたからと言って、主人が「帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。それはちょっと考えられないのではないでしょうか。
 でも、この主人をイエスだと考えると分かる気もします。主でありながら、僕の姿をとり、徹底的に仕えるものとなった。イエスの生き方はまさにそういう生き方でした。今日の箇所で「給仕する」と訳された言葉は、「奉仕する」「仕える」とも訳される言葉で、「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来た」というときに使われる言葉。イエスの生き方、弟子たちのあるべき生き方の中心にあるものを表しています。

 この仕える姿を特に印象的に表すのは、ヨハネ福音書13章、最後の晩餐の席でイエスが弟子たちの足を洗った場面ではないか。聖木曜日の洗足式はこのことを記念するものですから、お馴染みですね。最後の晩餐の席ではイエスだけが一方的に弟子たちの足を洗ったのですが、弟子たちに向かっては、ただ「他の人の足を洗いなさい」と言うのではなく、「互いに足を洗い合いなさい」と言われました。わたしだけが僕として奉仕すればいい、というのではなく、「お互いに」ということは大切なポイントだと思います。
 「とにかくあなたがたは他の人に奉仕しなさい」というと重荷に感じるかもしれません。しかしイエスは仕え合うことを求めています。それは「主人と僕」という上下関係を乗り越えることと意味しているのではないでしょうか。

 ヨハネ福音書15章では、イエスは「もはやあなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とおっしゃいました。こういう文脈の中です。
 「12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

 主従関係の中で仕えたり、愛したりするのではなく、友として愛し合い、仕え合うのです。友達同士なら、相手に対して、給仕をするのも当然ですね。本当に友だと思ったら、相手のためにできる精一杯をする。それは「おもてなし」と言ったらいいかもしれません(オリンピックと関係なく、やはりいい言葉です)。
 神様が、イエス様が、友としてわたしたちをもてなしてくださる。そう考えると今日の福音は本当に素晴らしい恵みの世界だと思います。

 友だから当然おもてなしをする、という面もありますし、おもてなしをすることによって友になっていく、ということもあるでしょう。「仕えられるためではなく仕えるために来られた」イエスは仕えることによって、わたしたちの友となろうとされたのではなでしょうか。いのちを与えるまで仕え、愛する、という生き方は、わたしたちを本当の意味で友とするためだったと言ってもよいのでは?
 今日の福音の後半では「主人の思いを知りながら」それに答えなかった人が厳しく批判されています。先ほどのヨハネ福音書の箇所には「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」とありました。本当にわたしの思いをわかってくれる人がわたしの友。父である神の思いをわかってくれる人がわたしの友。御父の思いが、イエスの思いが本当にわかったら、あなたがたもわたしの友として、他の人に愛の奉仕をすることができるはずだというのでしょう。

 平和旬間です。平和のために祈り行動するというのは、ただ戦争がなければいいのではない。国の違う人、立場の違う人、考えの人とどうしたら友となれるか。それがわたしたちに問われていると思います。
 もてなすことによって、相手のために精一杯のよいことをすることによって、友となっていく。ある場合には自分が損をしてでも、相手のためにしてあげることによって、友となっていく。人間的には難しいと思えることです。しかし、それがイエスの生き方でした。わたしたちもこのイエスの生き方にならうことができますように。


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