毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第20主日@大磯教会

20160814

少し遅くなってしまいましたが、日曜日の説教をあげておきます。
大磯教会は小さな教会だと聞いていましたが、
敷地は広くて、昔のお金持ちの別荘らしい司祭館とテニスコートまでありました。
びっくり。

●年間第20主日
 聖書箇所:エレミヤ38・4-6、8-10/ヘブライ12・1-4 /ルカ12・49-53
                         2016.8.14大磯教会
 ホミリア
 日本の司教団は8月6日の広島原爆の日から長崎原爆の日をはさんで8月15日の終戦の日までの10日間を平和旬間と定めています。1981年、ヨハネ・パウロ2世教皇が日本に来て、広島で平和アピールを語られた翌年から、この日本カトリック平和旬間が始まりました。平和について学び、平和のために祈り・行動するときと言われています。というわけで平和旬間なのですが、きょうの福音は単純に平和を良しとはしていません。
 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」
 イエス・キリストは本当は平和をもたらすために来たはずです。ですから「平和をもたらすためではなく分裂をもたらすために来た」というのは理解しにくい言葉です。でも本当の平和を実現するためには、偽りの平和で良しとしていてはいけない、ということなのでしょう。
 
 「偽りの平和」という言葉をフランシスコ教皇が使っています(使徒的勧告『福音の喜び』218)。
「平和な社会とは、融和でも、あるいは単に、他の一部の社会を支配することによって暴力がなくなることでもありません。平和が、貧しい人々を黙らせ鎮める社会組織の正当化の口実となるならば、それは偽りの平和も同然です。」
 日本のわたしたちと少し感覚が違うようにも思います。わたしたちは70年以上前に第二次世界大戦という大きな戦争を経験して、その悲惨さを知ったので、とにかく戦争がないほうがいいと考えます。日本では平和というと何より戦争しないこと。
 しかし、フランシスコ教皇は違います。アルゼンチンのブエノスアイレスで生きてきた方です。1970年代、アルゼンチンも含めてラテンアメリカの多くの国は軍事政権下にありました。その中で貧しい人は抑圧され、人権はひどく蹂躙されました。一見、社会が平和に見えていても、そこにあるのが力によって社会秩序を保っているというような平和ならそれは「偽りの平和」だということになります。教皇の考えの背景には、そういうラテンアメリカの人々とそこでの教会の体験があると思います。

 とにかく戦争がなければいいのか、それとも戦争がないだけではだめか。どちらが正しいというのではありません。しかし聖書では正義と平和を切り離すことはできません。それはただ平和を祈ればいい、というのではなく、わたしたち一人一人が本当に平和を築く努力が大切だということを思い出させてくれるように感じます。それは何よりも神のみこころに沿って、一人一人の人間を尊重すること、特に弱い立場の人が大切にされる世界を作っていくということです。

 『福音の喜び』の中で、フランシスコ教皇は平和のための4つの原理を掲げています。「時は空間に勝る」「一致は対立に勝る」「現実は理念に勝る」「全体は部分に勝る」分かりやすいような分かりにくいような言い方ですが、最初の「時は空間に勝る」という点についてだけお話ししたい。
 「空間を優先させることは、現在の時点ですべてを解決しようとする、あるいは、権力と自己主張が及ぶ空間すべてを我が物にしようとするという愚かな行為へと人を導きます。・・・時を優先させるということは、空間の支配よりも、行為の着手に従事するものです」(223)
 問題や対立があるときに、それを空間的に見て、今なんとか解決しようとする。そのために力(経済力や軍事力)で解決しようとなりがち。でもそれは愚かなやり方。本当に大切なのは、時間をかけて対話と相互理解を積み重ねていくこと。教皇のいう意味はそういうことだと思います。人間はせっかちですね。だから今すぐに答えがほしい。でも「時は空間に勝る」。神さまは違うと言いたいようです。
 人間の考えと神様の計画は違うのです。わたしたちは今日明日のことを考え、心配し、いろいろ神に願い事をする。でも神さまは長い人生をとおして人を導いてくださっている、そう感じることはないでしょうか。人間は目先の問題に翻弄され、何とか人間の力で解決しようとする。でも神様は何千年も準備してイエス・キリストを世に送り、それから2000年もかけて今も神の国を完成に向けて導いている。そう考えた時に、わたしたちは希望を持って、神様の導きに信頼して、精一杯の愛をもって、歩み続けることができると思います。

 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」イエスは本当は何をもたらすために来たのでしょうか。それは聖書の言葉で言えば「神の国」です。神が王となること。神の愛がすべてにおいてすべてとなること。そこでこそ本当の平和が実現するとわたしたちは信じています。その神の国の完成に向かって、わたしたちが日々、歩み続けることができますように。アーメン。


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