毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第23主日のミサ@国府津教会

20160904

天気予報が見事に外れ、昨日も今日もよいお天気になりました。
写真は土曜日の国府津海岸の朝日です。

●年間第23主日
 聖書箇所:知恵9・13-18/フィレモン9b-10、12-17/ルカ14・25-33
                   20160904国府津教会
 ホミリア
 きょうの福音は塔と王のたとえ。たとえ話自体は難しくない。塔を建てるのにいくらかかるか、たとえば6億円かかるとして、3億円しかなかったら、無理でしょう。もしかしたら(オリンピックで?)資材が高騰したり、いろいろ経費がかさんで8億円ぐらいかかってしまうかもしれないから、それくらいはないと。まあ普通、そういう計算をするでしょう、と言うのですね。向こうから2万人の軍隊がやってくるのにこちらが1万人の軍隊じゃ勝ち目ないでしょ。そういう計算も簡単ですね。でも結論はちょっとどうかと思います。「同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」「ええっ?」と思うのではないでしょうか。確かにイエスについていくのは厳しいことだとは分かるけれど、たとえ話の計算の話とはちょっと合わない気がします。
 これって本当に数の問題、計算の問題なのでしょうか。

 サン=テクジュペリの有名な『星の王子様』という本の中に「大人は数字が好き」という話があります。
 「おとなというものは、数字が好きです。新しくできた友だちの話をするとき、おとなの人は、かんじんなことはききません。〈どんな声の人?〉とか、〈どんな遊びがすき?〉とか、〈ちょうの採集する人?〉とかいうようなことは、てんできかずに、〈その人、いくつ?〉とか、〈きょうだいは、なん人いますか〉とか、〈目方はどのくらい?〉とか、〈おとうさんは、どのくらいお金をとっていますか〉とかいうようなことをきくのです。そして、やっと、どんな人か、わかったつもりになるのです。」

 本当のことをいうと、今日の福音も数字の問題ではないのではないでしょうか。「神の国に入るにはどれくらい犠牲をしなければならないか」ではなく、「わたしたちがイエスという方にどれほど魅力を感じ、ついていきたいと思っているかどうか」。そういう問題。そして本当にイエスについていきたいと思ったら、自分の力に頼っていてはダメなんです。自分の力、自分の働き、自分の持っているものを手放して、神の働きに身を委ねるのでなければ。そういう意味なのではないでしょうか。福音は、神の国は、イエスに従うことは人間の計算が通用しない世界なのです。これくらいやっておけば大丈夫だろうとか。それじゃダメだからもっともっと犠牲しなければダメだとか。そんな計算は通用しなくて、本当に神の国の喜びを知って、イエスの素晴らしさを知って、神様にイエス様に信頼してついていく。そういう世界です。その福音の世界への招きを感じたい。

 さて今日は「被造物を大切にする世界祈願日」です。本来は9月1日で、日本では日曜日がよいだろうということで、9月の第1日曜日に教会で一緒に祈ることになりました。英語では“World Day of Prayer for the Care of Creation”と言います。最初、この日の名称について「環境保護のための世界祈願日」という案があったのですが、「ケア・オブ・クリエーション」は環境保護だけでは足りない。教皇が『ラウダート・シ』の中で繰り返し強調しているように、すべてのことはつながっている。大地と、水と、動植物と、人間(特に貧しい人)の問題、生まれる前の赤ちゃんのいのち。すべてはつながっている。そのすべてを大切にするように、これが今日の祈りのテーマです。

 このテーマが詳しく述べられた回勅『ラウダート・シ』(略号LS)が昨年発表されて、先日、日本語版も出版されました。その中で、教皇はこういうことを言っておられる。
 人間はいろいろと計算します。どうしたら最大の利益を上げることができるかという計算をして、最大の利益を上げられる方法を選ぼうとします。今の世界経済の中で当たり前のことです。でもこの「利益最大化の原則」について、フランシスコ教皇は厳しい批判をします。たとえば、森林伐採によって生産を増大させ、大きな利益をもたらされるとする。でもそのことによって土地が砂漠化したり、貴重な動植物が失われても、その損失は計算されていない。「ビジネスは、関連コストのほんの一部だけを計算して支払うことによって利益を得るのです」(LS195)これは厳しいけれど、本当にそうだと思います。お金にならない、計算できないものはそれがどんなに貴重なものでも無視してしまう。今の経済はそういうところに落ち込んでいて、その結果、貧しい人、弱い人、無防備な動物や植物、被造物すべてが犠牲になっていく。そういう意味でお金に換算できない自然の素晴らしさ、生命の素晴らしさに目を向けなければならないのでしょう。

 わたしたちにできることは何か? フランシスコ教皇はいろいろ言っていますが、一番簡単なことだけ紹介します。それは「食前食後に手を止めて神に感謝をささげること」です。「食前食後の祈りは、わずかな時間であっても、わたしたちのいのちが神の手の中にあるということを思い起こさせてくれます。それは、被造物という贈り物への感謝の思いを強め、それを提供してくれる人々の労働をありがたく思い、困窮の極みにある人々との連帯を再確認する時なのです。」(LS227)誰が何時間労働してこの食べ物を作り、わたしがいくら払ってそれを手に入れたか、そんな計算ではなく、そのすべてが神から与えられたすばらしい恵みだと受け取って感謝するのですね。造られたすべてのものを大切にするためにこれはとてもよいことだから、改めて食前食後の祈りを勧めたい、と教皇は言っておられます。

 さて今日はもう一つ、カトリック教会で大きなことがあります。ローマでフランシスコ教皇によってマザーテレサが列聖されるのです。数字や計算との関係で思い出したのは、「大海の一滴」という言葉です。マザーテレサの活動に対して、インドには貧しい人や苦しんでいる人がおおぜいいるのに、彼女のしていることはほんのわずかな人を助けるだけではないか、世界は何もかわらないじゃないか、と、そういう批判がありました。その批判に対して、マザーテレサはこう答えました。
 「わたしたちのしていることは、大海の一滴に過ぎません。ですが、もしこれをするのをやめれば、大海は一滴分小さくなるでしょう。」これも数の問題、計算の問題じゃないのですね。マザーテレサにとって、今、道に倒れている人、わたしの目の前にいる人がキリストであって、そのキリストに奉仕することが何より大切だったのです。それは計算の問題じゃなかった。でもそのマザーの生き方は多くの人の心をゆさぶり、変えました。

 わたしたちはあまりにも計算の世界にどっぷりと浸ってしまっているのかもしれません。
 数や計算ではなく、本当に大切なものを見つめるように、イエスからの、マザーテレサからの、フランシスコ教皇からの(そして星の王子様からの)呼びかけを受け止めて、それに応えることができるよう、今日ご一緒に祈りたいと思います。


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