毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第25主日のミサ@二宮教会



神奈川県・二宮教会での主日のミサ
この聖堂は海に向かって建っています。
改築をしたときに正面の両サイドにガラスを入れ、
ミサ参加者から海が見えるようにしたそうです。
ステキですね。

●年間第25主日
 聖書箇所:アモス8・4-7/一テモテ2・1-8/ルカ16・1-13
               2016.9.18カトリック二宮教会にて
 ルカ福音書には、先週の100匹の羊のような分かりやすいたとえ話がありますが、きょうの福音のようなとても分かりにくいたとえ話もあります。あまりにも分かりにくいので、前半のたとえ話は《 》の中に入れられていて、無理して読まなくてもよいようになっています。とにかく後半のイエスの言葉だけでもしっかり味わえということでしょうか。でも後半の言葉もそれほど簡単ではないかもしれません。

 10節「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」ここでいう「小さなこと」はお金のことですね。「大きなこと」は「本当に価値のあるもの」とも言われていますから、「永遠の住まい」「神との関係」「神のもとにある喜び」のことでしょう。
 「お金のことは小さいこと」? こういう感覚はわたしたちにあるでしょうか。わたしたちは毎日お金のことを考えて生活している、それは決して小さいこととは感じられないでしょう。でももっと大きなこと、大切なことがある、とイエスはおっしゃりたいのでしょう。お金のことが大きくなりすぎていないか、問いかけてみることは大切ではないでしょうか。

 さらにこんな言葉もあります。12節「他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。」
 ここでいうあなたがたのもの、は「天の宝、永遠のいのち」のことですね。そして「他人のもの」はわたしたちの財産・お金です。この感覚は? 自分の持っている財産は、お金は「他人のもの」だと考えたことがあるでしょうか?

 昔わたしが神学生になったころのことを思い出しました。当時、神学生には毎月5千円のお小遣いが支給されていました。住まいと食事と授業は無償で提供されていて、その他の身の回りのものを買うために使えるのがこの小遣いでした。わたしのように大学を出てすぐに神学校に入った人間にはそれはとても貴重なお金でした。でもわたしはそのころタバコを吸っていて、ぜんぜん足りませんでした。
 同級生にO神学生という人がいました。わたしよりも1歳年上で、ほとんど社会経験なし、つまり蓄えもなかったはずでした。しかもお酒も飲み、タバコも吸っていました。それなのに彼はお金が余るというのです。そして余ったお金で、みんなのためにお酒を買ってきたりするのです。なんて不思議な人なんだろうと思っていました。彼に言わせると自分のためにほとんどお金を使う必要がないから、あとはみんなのために使う、というのです。本当に驚きました。その秘訣を知りたいと思いましたが、結局よくわかりませんでした。彼は司祭になってよい働きをしていましたが、若くして病気で世を去りました。本当に残念です。

 さて、でもわたしは神学生時代、そのO神学生と出会い、その他の経験もあってすごく考えさせられたのです。お金は自分のためのものじゃない。必要最低限のものを買うだけのお金は必要。でも余ったお金は自分のものじゃなく、みんなのもの。神学生のときに学んだことですが、ずっと残っているように感じています。
 いや神学生とか司祭だからそんな綺麗事言っていられる、と言われればそれまでですが・・・。

 第二バチカン公会議の『現代世界憲章』に「地上の富は万人のためにある」という教えが述べられています。カトリック教会では伝統的に財産の私的所有ということは認められていますが、「人間は、富の使用に際して、自分が正当に所有している富も単に自分のものとしてだけでなく、共同のもの、すなわち富が自分だけでなく他人にも役立ちうるという意味において共同のものであると考えなければならない」(GS69)と言っています。フランシスコ教皇も使徒的勧告『福音の喜び』の中で、「財産は万人のためにあるという原理は私的所有よりも優先される」とか「財産の私的所有は、財産を保持して増やすことが、共通善に対するよりよい奉仕へと向かうことによって正当化される」(EG189)と言っています。
 つまり自分が正当に得たお金ならば自分のためだけに使ってもいい、というのではないのです。自分と家族のために最低限必要なお金はどれくらいか、では余ったお金はどう使ったらいいか。それはあえて言えば「他人のもの」・・・神様のもの、とも言えるでしょうし、貧しい人のものとも言えるでしょう。だとしたらどのように使えばよいか。そんなふうに考えることを聖書と教会の教えは呼びかけています。

 いやいや本当にぎりぎりの生活をしている方もいらっしゃるでしょう。「お金は小さいこと」、「お金は他人のもの」なんて、とてもそんなこと言っていられない現実もあるでしょう。でも、あまりにもお金に縛られていたら、神でないものに振り回されているとした、ちょっとそう感じてみることも大切ではないかと思いました。「神と富とに仕えることはできない」そう言われるほど、つまり神との関係を忘れさせる危険があるほど、お金の問題は現実には大きな問題です。自分の信仰の中で、神との関係の中でどのようにお金のことを見ていったらいいか、神と隣人を大切にしながらどうお金と付き合えばいいのか、難しい問題ですが、神からの光と導きを願い求めて祈りましょう。


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