毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第27主日@平塚教会



平塚教会でのミサの説教です。
写真はミサ後、奉仕者の皆さんと一緒に撮っていただきました。
おつかれさまでした。

●年間第27主日
 聖書箇所:ハバクク1・2-3、2・2-4/二テモテ1・6-8/ルカ17・5-10
                 2016.10.2平塚教会
 先週、秦野教会に行ったら「たばこ祭り」をやっていました。そのお祭り会場の通りの中に教会があり、教会でもバザーをやっていました。道行く人が自然に教会に入ってきて、とても賑わっていました。結構盛大なお祭りだそうですが、初めて知りました。今どき「たばこ祭り」ってすごい名前ですね。秦野市では今はたばこを栽培していませんが、かつてはたばこ栽培がさかんで、そこから来ている名前だとのことでした。

 わたしがたばこをやめたときのことを思い出しました。10年前のこと。すごいヘビースモーカーでした。母が心配性で、息子がたばこのせいで自分よりも先に死んでしまうのではないかと心配し、夜も眠れなくなったと言うのです。それで、わたしとしては「まあ仕方ない。どこかでやめるしかないか」と思いました。そのとき、母がくれた『禁煙セラピー』という本を読んでみました。アレン・カーというイギリス人が書いた本です。本の内容ですが、要はタバコがやめられないというのはほとんど心理的な問題だということでした。肉体面での禁断症状はほとんどない。自分はタバコなしではやっていけないと思い込んでいる。それはタバコ会社の心理操作。政府はタバコの税収があるのでそれと結託している。「タバコを吸うのはかっこいい」「タバコを吸うのが大人のしるし」「タバコはおいしい」「タバコを吸うと気分が落ちつく」「タバコをやめようとしても禁断症状がつらい」それは全部ウソ。そう思い込まされているだけで、事実ではない。

 信じられますか?タバコを吸っている人は信じませんね。でもわたしはとにかくやめることに決めていたので、信じることにしたのです。本当かどうか、とにかく信じてみよう。そして、ある朝、その本にあった「人生最後の一本」を吸ってから、ミサに行きました。ミサが終わり、自分の部屋に戻ってくる途中でものすごい解放感を味わったのです。今までなんであんなものに縛られていたんだろう、というすがすがしい感覚ですね。そして本当にそれ以来、一度もタバコを吸いたいと思ったことがありません(ただ何となく口さみしくて夜食を食べるようになり、10kgも太ってしまいましたが!)

 さて、今日の聖書朗読は「信仰」がテーマです。第一朗読はハバクク書。「神に従う人は信仰によって生きる」。福音でイエスは「からし種一粒ほどの信仰があれば」なんでも可能になる、とおしゃいます。でもなかなか信じられないという人もいますね。どうしたら信じられるようになるのか。
 禁煙の話ではないですけれど、わたしは「とにかく信じてみる」っていうのも大切ではないかと思っています。神様に対して「信じてみる」なんて失礼かもしれませんが、まずはそこから始めてもいいのでは・・・

 「たばこはやめられない」と思い込まされているように、現代のわたしたちがいつの間にか思い込まされていることがあるのではないでしょうか。それは「人間の力がすべて。お金の力や科学技術の力がすべての問題を解決するし、その力ですべての問題を解決すべきだ。だからもっともっと経済を発展させるべきだし、科学技術を進歩させるべきだ」という思い込みです。なんとか一人一人の人間も、自分で努力して、自分の力をつけて、自分の力(知識やお金)でなんでもやっていかなけばならない。そう思い込まされている。そこから「神様なんかいない。いたとしても関係ないし、頼ってはいけない」という考えに落ち込んでいきます。でもこういう考え方は本当に人を幸福にしているでしょうか。むしろどれほど多くの人がそれで行き詰まっているでしょうか。本当に行き詰まっているとしたら、「神さまのいつくしみの力を信じてみる」というのも一つの道ではないでしょうか。

 フランシスコ教皇はこう述べています。
 「イエスを知っているのと知らないのとでは大違いですし、イエスとともに歩むのと手探りで歩むのとではまったく異なります。みことばに耳を傾けるのとそれを知らずにいるのとでは大違い、イエスを観想し、礼拝し、イエスのうちに憩うのと、そうしないのとでは大違いです。福音に基づいて世界の建設を目指すことと、自己の理性のみによってそれを試みることとはまったく異なることです。わたしたちはよく分かっています。イエスがともに歩む人生ははるかに充実したものになり、イエスがともにいてくだされば、すべてに意味を見いだしやすくなることを。」(使徒的勧告『福音の喜び』266)
 簡単に言ってしまえば、「信じて生きるのと信じないのとでは人生が違う」ということですね。イエスは「からし種一粒の信仰があれば」とおっしゃいます。信仰があれば自分の力が大きくなるというのではありません。神に信頼をおけば、そこに神さまの力が働く、だからなんでも可能になる、ということです。

 そしてそこに広がるのは、「安心感」と「連帯感」の世界です。
 いつもどこかで神が支えてくれている。守り、導いてくれている。この「安心感」があれば本当に心強いものがあります。
 連帯感はまず何よりも「神がともにいてくださる」と感じる中で、孤独感から解放されるという神との連帯の意味でもありますが、すべての人は同じ神様の子だという人間同士の連帯感にもつながります。この連帯感も人生を支える大切な感覚です。
 不安と孤立の中を生きるのか、それとも安心と連帯の中を生きるのか。神を信じるのと信じないのでは大違いなのです。
 わたしたちは不思議にもこの信仰の道に招いていただきました。与えられた信仰の恵みに感謝し、この信仰の道を喜びと希望と愛をもって歩むことができるように、心から祈りましょう。



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