毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第29主日のミサ@真鶴教会



真鶴教会はまたの名を「海の星教会」と言います。遠くに海が見える高台にあります。
相模湾の先、かすかに見えているのは三浦半島です。

一週飛んでしまいましたが、また説教メモをお届けします。

●年間第29主日
 聖書箇所:出エジプト17・8-13/二テモテ3・14~4・2/ルカ18・1-8
                  2016/10/16真鶴教会

 今日の福音は「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えるたとえ話です。第一朗読でも祈りの中で神が働いてくださったという旧約の物語が読まれます。「祈りは大切です、だから祈りましょう」それが今日の聖書の呼びかけです。
 祈りが大切なのは、祈りに魔術的な力があるからではなく、神がその祈りを必ず聞いて、答えてくださる方だからです。神はすべての人の父であり、それゆえ苦しむすべての人を決して見捨てることなく、その叫び声を聞いてくださる方。これはイエスの確信でした。今日の福音では「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」と言われます。「選ばれた人たち」はここでは特に貧しく、苦しんでいる人のことです。

 旧約聖書の信仰の原点にあったのも、この神との出会いの体験でした。出エジプト記3章で、エジプトの奴隷状態にあった民を救うために、神はモーセを召し出します。そのときに神はこう言われました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し・・・」(7-8節)
 神は何よりも苦しむ人の叫びを聞いてくださる方なのです。いつの間にか人間は神様を誤解していきます。特に宗教熱心な人たちは、自分たちのような正しい人間の祈りを神は聞いてくださる。正しいいけにえを供えて、正しい祈り方で祈ったら神は聞いてくださる。そんなことを考えるようになります。でもイエスにとって神は特別な人だけの神ではなく、すべての人の父であり、すべての人を例外なくいつくしみ、だからこそ特別に苦しむ人の叫びを聞き、痛みを知っていてくださる方でした。

 イエスが神を何と呼んだか、聖書に伝えられています。それは「アッバ」という呼び方でした。これはイエスの生きた社会で話されていたアラム語で、子どもが父親を呼ぶときの言葉です。だから「父よ」とか「おとうさん」と訳されます。この「アッバ」という言葉について、東京教区の佐久間神父という方が次のように言っていました。
 「アッバ」は実は赤ちゃんの言葉。世界中どの言語圏に生まれても、人間の赤ちゃんが出しやすい音は決まっていて、赤ちゃんは同じような言葉を最初に話す。たとえば「ママ」とか「マンマ」。これを聞いたある国の人は「お母さんを呼んでいる」と思って、「ママ」はお母さんをさす言葉になりました。日本の大人は、赤ちゃんが「マンマ」というのを聞いてお腹を空かせているのだろうと思って「マンマ」はご飯という意味になりました。本当はおっぱいがほしいのか、オムツが濡れて気持ち悪いのか、なんか分かりません、でも叫び声をあげる。それに大人が後から意味を与えたのです。「アッバ」という言葉も同じような言葉で、赤ちゃんが何かのときに「アッバ」と言う。すると昔のイスラエルではお父さんを呼んでいるんだろうと思って、「アッバ」はお父さんの意味になりました。でも日本のいろいろな地方の方言を調べていくと、秋田県のある地方に「アバ」という言葉があり、その意味はなんとお母さんなのです。その意味でイエスが神を呼んだ「アッバ」は、父親か母親か、そんなことはどうでもよくて、人間が最初に叫び声をあげる相手なのだと言える。佐久間神父はこういうことを言っていました。

 さて、赤ちゃんが話し始めるまでに1年ぐらい、あるいはもっとかかるわけですが、それまでにどういう体験があるかというと、大人が赤ちゃんの世話をしてくれる。そしていろいろと話しかけてくれる。そういう体験があるのです。その体験が積み重なった上で赤ちゃんは叫び声を上げます。それは叫びを聞いてくれる人がいるということを知っているからです。誰かが聞いてくれる。そうでなければ「ママ、パパ、アッバ」という叫びは出ないのです。聞いてくれる人がいるということを感じているからこそ、「アッバ」が出てくる。これはものすごい信頼ですね。
 「この叫びは必ず聞いてもらえる」これが「アッバ」という言葉の特徴だと言えるでしょう。わたしたちが神に向かって叫ぶとしたら、神が必ずわたしたちの叫びに耳を傾けてくださるという信頼があるからです。わたしたちは生まれたときから、人間の親だけでなく、目に見えない神様によって守られ、生かされ、さまざまな恵みを注がれてきました。その神はわたしたちを決して見捨てることはない。イエスはこの確信をもって神に「アッバ」と呼びかけ、人々に対しも神に向かって「アッバ」と祈ることを教えました。

 でもわたしたちはいくら祈っても神は聞いてくれなかった、という体験もしています。たぶんわたしたち、ほとんど皆がしていると思います。
 人間の間でもそういうことがあります。親だっていつも聞いてくれているか分からないし、何もかも思い通りのことをしてくれるわけじゃない。まして他人は自分の願いに答えてくれるわけではない。むしろとんでもないひどい目に遭わされるかもしれない。だからもう簡単に人を信じないようにしよう。残念ながら大人になるっていうことにはそういう面がありますね。でも、人への信頼をまったく失ってそれでも人は生きていくことはできるか。そこにあるのは不安と争いと勝ち負けと孤立の世界ではないか。それだけの世界なら人間は生きられないのではないでしょうか。自分にも、他人にも、人間に対する信頼をある程度持たなければわたしたちは生きていけません。人に対する信頼はやはり大切なものです。
 そしてわたしたちは、人間を超えて、目に見えない大きな力が、いつくしみ深い父である神がわたしたちを包み、生かしてくださると信じて生きたいのです。どんなときも、何があっても、たとえ人がわたしを見捨てたとしても、わたしを支えてくださる方への信頼を持ち続けたいのです。祈っても自分の願いどおりにいくとは限りません。病気や他の苦しみもなくならないかもしれません。最後はみな死を迎えることになるのです。それでもそのすべてを超えてアッバである神はわたしたちを決して見捨てない。わたしの叫びを必ず聞いてくださる。そう信じて祈るとき、わたしたちは大きな支えを感じることができます。
 赤ちゃんのときの、あの信頼を思い出しましょう。「このわたしの叫びは必ず聞いてもらえる」という信頼をもって祈り続けたいと思います。

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