毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第32主日のミサ@二宮教会



二宮教会でのミサ。天気も最高でした。
写真は小聖堂のようなところです。大きな聖堂からより、もっと海がよく見えます。
(天気が良すぎ、海が明るすぎて、うまく撮れませんでしたが)

●年間第32主日
 聖書箇所:二マカバイ7・1-2、9-14/二テサロニケ2・16~3・5/ルカ20・27-38
            2016.11.6二宮教会
 ホミリア
 ずいぶん前のことですが、ある高齢の親戚のお通夜に行きました。仏教のお通夜でしたから、司祭のカラーをつけずに黒いネクタイをして行きました。とてもいいお通夜でした。亡くなった親戚のおばあさんはずっとそのお寺と関わっていて、そのお坊さんが子どものことからよく知っている人で、法話も心のこもった温かいものでした。
 カトリックの葬儀でも、信者でない方がたまたま参列されて、カトリックの葬儀はいいとおっしゃってくださることが多いのですが、それはやはり司祭が死んだ後ではじめて関わるのではなく、生前から病気のときもずっと関わっていることが多いからなのではないかと思います。

 さてそのお坊さんの法話の中でわたしにとってはショッキングな言葉がありました。「仏教では、キリスト教のように『復活』なんていう馬鹿なことは言いません。」もちろんその場にキリスト信者がいるとは考えてもみないでおっしゃったのだと思います。でもそれだけ率直な言い方に聞こえました。死んだ人が生き返ってくるなんていうのは馬鹿なこと? 確かに理性的に考えればそうかもしれません。今日の福音のサドカイ派の人々もそう考えていたようです。でも本当に「馬鹿なこと」でしょうか。

 一つには言葉の問題もあるのではないかと思います。わたしたちは「復活」という言葉を当たり前のように使っていますが、もとの聖書のギリシア語では「アナスタシス」と言います。「スタシス」は「立つ」という意味の動詞からきた言葉です。「アナ」は「再び」という意味もありますが、もう一つの意味は「上へ」という意味です。「再び立つ」という復活のイメージもありますが、実は「上へ立つ」というイメージも大切です。復活とはこの世のいのちのレベルに舞い戻ってくることではなく、天のいのち、神のいのちに生きることを意味するからです。イエスの場合、この天の永遠のいのち、神のいのちに生きていることを弟子たちに知らせるために地上に姿を現しましたから「復活」というイメージが強いのですが、復活のイエスは本当はこの世のレベルを超えたいのちを生きているのです。復活をこの世のいのちのレベルで考えたサドカイ派は、この世で複数の人と結婚していた人は、復活後はだれが配偶者なのか、という疑問を感じるのですね。でもイエスは、復活のいのちのあり方は、この世のいのちのあり方とはまったく違うのだとおっしゃいます。
 
 「死はすべての終わりだ」という考えはわたしたちの生きている社会でとても強いのではないかと感じています。「死はすべての終わりだ。だから今この世のいのちを大切にしよう」というのであればそれはそれで大切なことです。でもすべてのいのちは必ずいつか死を迎えることになるのですから、「死はすべての終わりだ」と言うだけなら、ものすごく淋しいし、むなしいですね。
 もちろんわたしたちの信仰ではそうではありません。死者のためのミサの叙唱に「死は新ないのちへの門であり、地上の生活を終わったのちも天に永遠の住みかが備えられています」とあります。死は決してすべての終わりではないのです。いつくしみ深い父である神はわたしたちがたとえ死に臨んでも、その死さえも超えて決してわたしたちを見捨てることはない。死を超えて、わたしたちは神の世界に行く。そこに神との決定的な出会いがある。わたしたちはそう信じています。

 それは単なる気休めでしょうか?そうではなく、どんな時も神への信頼と人への愛を持って生きるための力なのです。
 経済第一主義、消費主義、科学技術万能の考えがどんどん強くなり、この世でうまくいくかいかないか、ということがすべてであるかのようになっています。その中で、今この世での良い生活を必死で手に入れようとしている現実があります。でもそういう社会の成功から取り残されて自暴自棄になってしまうような人々もいます。
 神様との関係の中で何が大切か、それはこの世の計算だけの問題ではないのです。この世の成功や不成功、この世の損得、この世の勝ち負け。そんなことを突き抜けて、それでも神に信頼を置いて歩む。それでも人を愛して歩む。その力の源が復活の信仰です。

 難しいことを言っていますが? そんなに難しいことではないはずです。
 今与えられているいのちに感謝すること。そしてわたしだけでなく、すべてのいのちに感謝し、すべてのいのちを大切にして生きようとすること。なぜなら、今日の福音にあるように、「すべての人は神によって生きている」ものだからです。
 「すべての人は神によって生きている」
 今日のミサをとおして、この信仰を新たにすることができますように。


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