毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第33主日のミサ@大磯教会



写真は大磯教会の信徒館です。
この信徒館は、昔のお金持ちの別荘の建物を今でもそのまま使っているそうです。
敷地はとても広くて、庭の斜面には太陽光発電のソーラーパネルも設置されています。

というわけでまたまた説教メモです。

●年間第33主日
 聖書箇所:マラキ3・19-20a/二テサロニケ3・7-12/ルカ21・5-19
                     2016.11.13大磯教会
 ホミリア
 先週、今週、そして来週の日曜日は終末主日と呼ばれます。世の終わり、あるいは個人の終わりである死に心を向ける。聖書朗読の内容もそういうテーマになっています。第一朗読では「高慢な者は滅び、神に信頼する者は救いを得る。」と言われています。終末というのは一面で破滅であると同時に他方では救いのメッセージなのです。
 福音でも、世の終わりは破滅であると同時に救いであるという両面が表れています。第一朗読とはちょっと違います。破滅はすべての人を襲う。主に信頼を置くあなたがたにも破滅は襲いかかる。いやむしろあなたがたのほうがもっと大きな苦しみを受ける。迫害も受ける。でも、「たとえ殺されても、髪の毛一本なくならない」とイエスは約束されます。

 普通は逆ですね。わたしも髪の毛が薄くなっていますが、髪の毛を失っても死なないほうがまし、というのが普通でしょう? 「たとえ殺されても、髪の毛一本なくならない」というのは、死に臨んでも、それでも神は決してわたしたちを見捨てない、というメッセージです。死と破滅、世の終わりや人生の終わりを超えた神の救いの世界があるというのです。それは永遠の世界といってもいい。どうやってわたしたちは神の永遠の世界とつながることができるか、キリスト教ははっきりとその道を示しています。それは「信仰と希望と愛」の道です。わたしたち人間の信仰、希望、愛は不完全ですが、それでもその信仰、希望、愛によってわたしたちは永遠の神の世界につながることができるのです。

 そう信じてはいても、わたしたちはやはり目に見えるものに心を奪われます。2000年前、エルサレムの「神殿が見事な石や奉納物で飾られている」のに見とれていた人々のようなものです。今だったらニューヨークのトランプタワーか六本木ヒルズのような富と繁栄に目を奪われるのです。少しでもそこに近づきたい、「いい生活がしたい」。だれの中にもある思いです。でも、それだけでは意味がない。生きる意味がない。永遠の価値あるものを持って生きる。それは富と繁栄ではない。信仰と希望と愛こそが永遠の価値のあるものです。

 一コリント13章のイメージを大切にしたい。「愛の賛歌」と呼ばれるあまりにも有名な箇所です。よくご存知だと思います。でも、何度でも味わったらいい箇所です。後半でパウロが言うことはとても大切。
 「8愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、9わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。10完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」〜すべては部分的なもので、過ぎ去るもの、消えていくものだといいます。愛以外のすべてがそうだというのですね。
 「11幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。」〜幼子はいい意味で使われることがある言葉ですが、ここでは悪い意味。単に知識も知恵もないという状態。幼子のときは何もわかっていなかったけれど、大人になった今は何でもはっきりとわかるようになった、といいます。これは一つのたとえです。
 「12わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。」〜この鏡は古代の鏡です。金属を磨いただけの鏡ですから、ものをぼんやりとしか映し出さない。でも最終的に起こることは、神様と顔と顔を合わせて出会うということ、もはや鏡をとおしてではなく、はっきりと神を見る。教会の歴史の中で伝統的にvisio beatifica(至福直観)と言われてきたものです。
 
 そしてこう続きます。
 「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」何を知るのでしょうか。まず神を知る。わたしたちは神を信じているといっても神さまのことをはっきり知っているとは言えないでしょう。でもそのとき顔と顔を合わせて神様を知るのです。それだけでなく自分自身をも知る。この世で生きている間、自分のことも本当のこと言えばよく分かっていない。生きていて何が本当に価値あるものか。何が本当に滅びないものなのか。神と出会い、神の光に照らされて、そのことがはっきり分かるのです。
 「13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
 すべては過ぎ去るもの。過ぎ去らないのは信仰、希望、愛だけ。神との決定的な出会いの中で、残るのは「信仰、希望、愛」。でも信仰と希望は溶けてなくなるという考えもあります。信じているのは見ていないから信じている。希望しているのは手に入れていないから希望している。神と出会ったとき、すべては満たされるから、もう信仰とか希望は消えてしまう。残るのは愛、愛がすべて。そう考えてもいいのかもしれません。

 わたしたちはこの世で、いろいろなものを必要としています。少しでもよい生活をしたいし、そのためにはお金も必要、科学技術も必要、いろいろな情報や知識や力も必要。そのとおりです。でも本当に滅びない永遠のものを見つめて生きる、これがわたしたち信仰者にとって決して見失ってはならないことです。ふだん忘れていても、死に向き合い、終末を思うとき、わたしたちはそのことに気づくのです。何が永遠のものか。何が過ぎ去らないものか。
 「愛は決して滅びない」使徒パウロはそう宣言しました。わたしたちがミサの中でキリストの死と復活を祝うというのは、パウロとともに「愛は決して滅びない」と宣言することです。今日もこのミサをとおして、わたしたちが本当にキリストの愛といのちに結ばれて生きることができますように。アーメン。





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