毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

王であるキリストの祭日ミサ@茅ヶ崎教会



「王であるキリスト」の祭日のミサの説教メモです。
茅ヶ崎教会の隣にはクリスト・ロアの修道院があって、そこでお昼をご馳走になりました。「クリスト・ロア」とはフランス語で「王たるキリスト」の意味なんです。

●王であるキリスト
 聖書箇所:サムエル下5・1-3/コロサイ1・12-2/ルカ23・35-43
                    2016.11.20茅ヶ崎教会
 ホミリア
 今日でいつくしみの特別聖年が終わります。先週の日曜日、世界各地ほとんどの巡礼指定教会で聖なる扉が閉じられましたが、今日でバチカンの聖ペトロ大聖堂の聖年の扉も閉じられ、この聖年が終わります。「いつくしみ深く 御父のように」フランシスコ教皇の呼びかけに応えて、わたしたちはそれぞれの仕方で、このいつくしみの巡礼をしてきました。果たしていつくしみがこの世界に浸透したでしょうか?

 現実は厳しいです。この世界にある大きな経済格差の中で移民が非常に増えています。それを力で押さえつけようとする動きも強くなっています。テロも繰り返されていますし、内戦を逃れて難民となる人も後を絶ちません。豊かな国々の多くが自国の利益を最優先して、移民や難民を締め出そうとします。ほとんどの国々の政府は、根本にあるとんでもない格差の問題からは目を背けて、経済発展・安全保障にばかり力を注いでいます。経済力や軍事力が世界を支配しています。その中で多くの人が切り捨てられているのではないでしょうか。そして日本国内でも、格差の現実の中で追い詰められ、自暴自棄になった人による犯罪が多発しているように感じます。
 そんな中で「いつくしみ深く 御父のように」と言っても、あまりにも弱々しいのではないでしょうか?

 今日祝う「王であるキリスト」の祭日は、それでもキリストの愛がすべてにおいてすべてとなる、というメッセージを告げています。愛といつくしみが広がっているから、最終的に愛がすべてとなるでしょう、そんな人間的で楽観的な見通しではありません。むしろ人間的に希望を持てないような状況だからこそ、神に希望を置くのです。世界は暴力とエゴイズムと憎しみと無関心で満ちている。でもいつかはキリストの愛がすべてにおいてすべてとなる時が来る。と信じるのです。
 「時間は空間にまさる」というフランシスコ教皇の言葉があります。使徒的勧告『福音の喜び』(2013)にも回勅『ラウダート・シ』(2015)にも出てきます。『福音の喜び』223では平和についての原理としてこのことが言われています。空間を優先するとは、今この世界を空間的に見て、問題を解決すること。あそこにテロリストの拠点があるとか、あそこから難民や移民が大量に入ってくる。だからそこをなんとかする。軍事力を使って、経済力を使って、要は力を使って問題を解決しようとする。これは愚かなやり方だと教皇は言うのです。時を優先させるというのは違うやり方。今すぐ一気にすべての問題を解決することはできない。でも「時を優先させるということは、空間の支配よりも、行為の着手に従事するものです」と言います。それは対話と相互理解の努力を積み重ねること。そういう時間をかけた取り組みが本当の平和への道だと言っています。『ラウダート・シ』178は環境保護政策について語る中で、この原理のことが出てきます。「権力者たちは近視眼的」と教皇は言います。目先のことばかり。消費に悪影響を及ぼしたり、投資にリスクを引き起こすような環境行動計画には消極的で、先延ばしにする。今ばかりを見ているから。でも本当は「時は空間にまさる」ということが大切。時間をかけて環境保護のための行動を進めていく、それを今始めるほうが本当は大切なのだとおっしゃいます。
 ここでいう「時」とは人間的な時間のことでしょうか?それもあります。でもやはり神の国の完成の時、キリストが宇宙の王となり、愛がすべてにおいてすべてとなる、その完成の時を信じているからこそ、今、目先の損得に振り回されずに、他者を尊重し、協力し合い、相互理解を求めて歩み続けることができるのです。

 きょうの福音は十字架の場面でした。イエスはまもなく十字架の上で息を引きとります。弟子たちから裏切られ、ローマ帝国に対する反逆者と断罪され、すべての人に見捨てられて十字架の死を迎えようとしています。ここにあるのは暴力と権力と無関心の支配する世界です。イエスは何もできません。十字架から降りてこいと言われて降りていくことはできません。無力なただの苦しむ人になってしまったイエス、それが十字架のイエスです。
 しかし、ルカ福音書はその中で、イエスとその隣で十字架にかかっていた一人の犯罪人の心の交流を伝えています。その犯罪人も死んでいくわけですが、その最後の瞬間に回心して「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。イエスはそれに対して、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。
 人間的には何の希望もない中で、それでも死を超えて、イエスの御国は完成する。死を超えて、神のもとにある楽園に入ることができる。その希望を二人は共有します。ここで十字架の悲惨さは愛と信頼の世界に変えられているのではないでしょうか。そしてここにもうある意味で神の国が始まっていると言えるのではないでしょうか。

 いつくしみの特別聖年は終わっても、わたしたちの歩みは終わりません。いつか神のいつくしみが憎しみと敵意に打ち勝つ、そう信じて歩み続けることができますように。この信仰を新たにするのが、この「王であるキリスト」の祭日のテーマです。


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