毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

待降節第1主日のミサ@秦野教会



写真は秦野教会の教会学校で作ったアドベント・クランツだそうです。

これで横浜教区神奈川第6地区でのミサ奉仕が終わりました。
来週日曜日からはしばらくの間、仙台教区原町教会(福島県南相馬市)でミサをささげることになります。

ではいつものように、説教メモを載せておきます。

●待降節第一主日
 聖書箇所:イザ2・1-5/ローマ13・11-14a/マタイ24・37-44
                        20161127秦野教会
 ホミリア
 今日で第六地区最後の主日ミサになりました。半年間、いろいろな教会に行かせていただいて、とても勉強になりました。秦野教会は前回来たとき「たばこ祭り」で、お祭り会場の中に教会があり、教会もバザー。教会の庭と道路がつながって、祭りに来た人が自然に教会にも入ってくるのがいい感じでした。わたしが滞在している国府津教会は線路側と国道側に入り口があり、門扉がないので、近所の人が公園のように通り抜けていく、これもいいなと思いました(実に内情はよく知らないので表面的な感想ですが、でも入りやすい教会というのは大切なことだと思います)。

 さて、今日の福音の結びの言葉は、「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。わたしはどきっとしました。自分の恥ずかしい失敗を思い出したのです。5月の中頃、国府津教会に来ましたが、来てすぐの夕方、一人の男性が司祭館の窓の外から声をかけてきました。「教会に行けば食べ物を分けてもらえると聞いたんですけど」というのですね。驚きました。ずっと無人だった教会にどうしてこの人は来たのだろう?わたしは来たばかりで食糧はほとんど何もありませんでした。それで「すみません。ここの教会にはそういう備えはないのです。他の教会に行けばあるかもしれません」と言ってしまいました。その人は帰っていきました。彼が帰ってしばらくしてから、あれはキリストだったのじゃないだろうか、って思ったのです。だとしたらわたしはキリストに扉を閉ざし、キリストを拒んでしまったのです。
 しばらくしてまた別の男性が来て教会の軒下で朝までまで泊めてほしい、と言いました。その時は部屋に招き入れて、話を聞いて、あり合わせのものを食べてもらいました。朝食も用意したのですが、朝にはもういなくなっていました。短期間にこんなことがあったので、その後、いつ誰が来ても食べ物をあげられるようにいろいろ用意しておくようになりました。不思議とそのあとはそういうことがありませんでしたが。
 「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」
 本当にそのとおりだと思います。わたしは小教区を離れて十何年、教会に住むっていうことはこういうことだと忘れていました。いつ誰が来てもいいように用意をしておく。来る人すべてをキリストとしてお迎えする。それが大切だということを思い出させてもらいました。

 待降節のテーマは「来られる主をお迎えする」ということです。そのために「目を覚ましていなさい」という呼びかけから待降節の典礼は始まります。「目を覚ましている」とはどういうことか、マタイ福音書には大切なヒントがあります。今日の箇所のイエスの説教はとても長い説教で25章の終わりまで続くのですが、その結びに有名な言葉があります。
 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだ」(マタイ25・40)
 キリストがどういう形で来てくださるのか、どのように迎えればいいのか、とても大切なヒントがここにあります。
 2000年前のベツレヘムの人々はヨセフとマリアという旅人の夫婦を拒絶しました。あなたがたのために泊まる部屋はありません、と。町の人々はこの二人から生まれる子どもが救い主であると知りませんでした。知っていたら無理にでも泊まってもらったでしょう。でもただの貧しい夫婦としか見えなかったのです。キリストは今もそういう姿でわたしたちのところに来てくださるのではないか。わたしは偉そうなことは言えません。あの時の彼を断ったからです。でもだからこそ、なんとか目立たない形で来てくださるキリストをお迎えできるようになりたいと思うのです。

 アドベント・リースを玄関のドアに飾るという習慣が日本でも結構広がっているようです(「ニトリ」にも売っていました)。どういう意味があるのか、いろいろ言われますが、あれは歓迎のしるしだというのを読んだことがあります。「イエス様、どうぞわが家に来てください。マリア様、ヨセフ様、どうぞわたしの家にお泊りください。大歓迎です」その心が待降節の心でしょう。だったらわたしたちは、どうやって人を歓迎することができるでしょうか。
 わたしは別にホームレスの人のことだけを言っているのではありません。わたしたちの周りの目立たない人、わたしが目を向けようとしていない人、目の前にいる人かも、あるいは遠くにいる人かも。そういう人をとおして、今年もキリストはわたしたちのところに近づいて来てくださっている。そのキリストを歓迎したい。

 世間でも教会でも、クリスマスのずっと前からクリスマスを祝っていますね。それもいいのではないかとだんだん思うようになりました。待降節は暗い顔をして主の降誕を待つ季節ではありません。喜びと希望の季節です。主の降誕という最高の喜びの出来事をたった一晩で味わいきれないので、一ヶ月かけて祝っていると考えたらいいと思います。お祝いしたらいいのです。ただ問われているのは、どうしたらその喜びを自分だけ、自分たちだけのものにせず、多くの人と分かち合うことができるか、ということではないでしょうか。





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