毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

待降節第3主日のミサ



先週から仙台教区原町教会(福島県南相馬市)に来て、ミサをささげています。
一応、来年の復活祭までここで奉仕させていただく予定です。
今日はもう待降節第3主日です。伝統的に「喜びの主日」と言われる日です。
先週はバタバタしていて説教メモを上げられませんでしたが、今日こそは・・・・

●待降節第3主日
 聖書箇所:イザヤ35・1-6a,10/ヤコブ5・7-10/マタイ11・2-11
                      2016.12.11原町教会
ホミリア
 『アルプスの少女ハイジ』というテレビアニメをご存知でしょうか。その中に足の病気で車椅子に乗っていたクララという少女が立ち上がるシーンがありました。わたしはその世代じゃないので、この番組を見たことはありませんが、そのシーンだけは何かで見ました。ただ子どもの頃、わたしは同じような場面を外国のテレビドラマで見たような記憶があります。本当は立って歩く力があるのに、ずっと車椅子に乗っていて、自分は立てない、歩けないと思いこんでいた子どもが、何かのきっかけでほとんど無意識に立ち上がり、歩き始めるというシーン。心に残っています。
 典礼聖歌に「主が手を取って起こせば」という聖歌があります。カトリックの新垣壬敏氏の作曲ですが、作詞は今駒泰成(いまこまやすしげ)というプロテスタントの牧師で、日本基督教団の『賛美歌21』にも収録されています。「主が手を取って起こせば、なえた足は立ち」と歌っていますが、調べてみたら元の詩は、「主が手をとって起こせば、よろめく足さえ、おどりあゆむよろこび。これぞ神のみわざ。」となっているようです。奇跡で病気が治る、というよりも、弱い足を強めてくださるというイメージなのではないかと思いました。

 今日の第一朗読イザヤ書に、「そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。」という言葉がありました。福音には「足の不自由な人が歩く」というイエスの言葉があって、旧約の預言が実現した救いの時代の到来を語っています。
 マタイの5節「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」こういうとほとんど奇跡の話のように聞こえるかもしれませんが、いわゆる奇跡のことだけでなく、イエスによって励まされ、立ち上がったすべての人のことが言われているのだと思います。
 イエスの目の前にいた人々は貧しい人、病気の人、職業的に蔑まれていたような人々でした。当時の律法の基準からすると何の価値もない人間、神から程遠いと思われていた人々です。しかし、イエスはその人々も神の子であり、自分の兄弟姉妹であると確信していました。父である神は一人一人の人間を例外なくご自分の子として見ていてくださり、だれの中にも神の子としての輝きがある、それがイエスの確信でした。でも多くの人は、その輝きを持っていながらそれを自分でも見失っていたのです。その人々はイエスとの出会いによって、自分は神から見捨てられた人間ではない、このわたしも神の子なのだという自覚を取り戻し、立ち上がっていきました。それがイエスのまわりで起こったことです。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」とはそういうこと。ここにもう天の国は始まっているではないか、とイエスはおっしゃるのです。

 第一朗読にはこういうイメージもあります。
 「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。2花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。」
 とても美しいイメージです。天から花の種が降ってくるのではありません。荒れ地には本当は花の種が隠れているのです。だから天から雨が降れば、地に花が咲くのです。人間もそれと同じです。イエスが人を神の子とするのではありません。人間は本当はだれでも、自分のうちに神の子の種を持っているのです。イエスはそこに恵みの雨を降らせ、その種を成長させ、花を咲かせてくださるのです。

 伝統的な神学の表現に「神性と人性の交換commercium」というのがあります。神のひとり子が人性をとられたことによって、人間は神性にあずかることができるようになった。分かりにくし、日本語では表現が難しくてほとんど語られることがないのですが、神学者であるベネディクト16世教皇がこれについて語っていました(2012.1.4の一般謁見http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message678.htm)。教皇が引用している聖書の言葉。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者をあがない出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(ガラテヤ4・4-5)。簡単に言えば、イエスが人となられたのは、わたしたちを神の子とするためだということです。いやすべての人の中にそもそも神の子の種があるのとしたら、わたしたちが神の子だということに気づかせるためだったと言ったほうがいいかもしれません。そのために、イエスはわたしたちと同じ人間となり、わたしたちの兄弟となってくださったのです。その神秘をわたしたちはクリスマスに祝います。
 わたしたちが自分の中に、そして出会うすべての人の中に神の子としての輝きをみつけることができますように。



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