毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第2主日のミサ



写真はカトリック二本松教会。
雪道を2時間かけて到着しました。
Yさんいわく。「マリアさまが観音様になっちゃった」
なるほど。

説教メモは午前中の原町教会と共通です。

●年間第二主日
 聖書箇所:イザヤ49・3, 5-6/一コリント1・1-3/ヨハネ1・29-34
                       原町教会&二本松教会
 ホミリア
 「世の罪を取り除く神の小羊」。毎回ミサの中で唱えていますから、お馴染みの言葉です。栄光の賛歌にも出てきますが、特に平和の賛歌。「神の小羊、世の罪をのぞきたもう主よ、われらをあわれみたまえ」パンを割くときに歌われる賛歌ですね。この言葉は今日の福音の箇所から来ています。そして聖体をいただく前に司祭は聖体を示しながら「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」と言います。こちらは黙示録の19・9から取られた表現です。
 でも「神の小羊」とはどういう意味か、説明しようと思うと難しいです。エルサレムの神殿でいけにえとしてささげられていた小羊。過越祭のときにほふられた小羊。イザヤ53章で苦しみをとおして民に救いをもたらす「主のしもべ」の歌の中にも。7節にこうあります。「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」それらすべてのイメージが重なり合っているようです。ヨハネ福音書や黙示録がイエスのことを「神の小羊」というのは、長い思索の結果です。この方が十字架の死によって、ご自分の血によって、本当の意味で人々に救いをもたらした。そのことを深く受け止めるうちに、「やっぱりこの方こそ神の小羊だ」というようになったのです。
 今日の箇所はヨハネ第2章、福音書のはじめのほうです。この時点で洗礼者ヨハネはイエスの本質を見抜いて「この方こそ神の小羊だ」と叫ぶわけですが、それを聞いていた人には何のことか分からなかったでしょう。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」確かに謎めいた言葉です。でも、大切なのは言葉の意味ではなく、この方を見つめること。そうです。この方を見つめること、それがキリスト教です。

 洗礼者ヨハネはイエスを以前から知っていたのでしょうか。イエスの母マリアと洗礼者ヨハネの母エリサベトは親類だったと言われていますから、お互いに知っていたとしても不思議はありません。ただ今日の箇所でヨハネは2回、「わたしは彼を知らなかった」と言います。それは人間的に知らなかったという意味ではなく、「彼が本当にどういう方かを知らなかった」という意味でしょう。
 そのイエスが自分のところに来たのを見たとき、ヨハネは驚きます。それはイエスがヨハネから洗礼を受けることを望まれたからです。洗礼を受けるということは水の中に沈むこと。身をかがめるのか、倒れこむのか、とにかく全身を水の中に沈める。それはヨハネにとって古い罪の自分に死んで新たに神のものとして生きる、回心のしるしでした。イエスはこの回心のしるしである洗礼を群衆の一人として、皆と一緒に受けることを望まれました。何のために? イエスが回心する必要があったのでしょうか。そうではなく、徹底的に自分を低くして、罪人である人類の一員となるためでした。
 その姿を見たとき、ヨハネは聖霊が天から降ってイエスの上に留まるのを見るわけです。最も深く人々とつながっている方が、最も深く神とつながっているのです。

 これはイエスの生涯を貫くことでした。
 イエスは親しみを込めて神を「アッバ」と呼びました。子どもが親に向かって信頼を込めて呼びかけるときの言葉です。「父よ」というよりも「おとうさん」。そのお父さんである神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)。イエスにとって神とはそういう方でした。どんな人をも例外なく大切にしてくださる方。神はすべての人の「アッバ」であり、わたしたちは皆、兄弟姉妹なのだ。どんな職業であろうと、どんな病気や障害を抱えていようと、どんな性別や年齢であろうと、どんな民族であろうと、神はすべての人の父アッバであり、わたしたちは皆兄弟姉妹なのだ。
 イエスはこのことを言葉で教え、身をもって生き抜かれました。わたしたちは福音書をとおして、毎週のミサの福音朗読をとおしてそのイエスを見つめていきます。

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。
 わたしたちはヨハネの指し示した方を見つめます。そしてこの方が本当にわたしたちの兄弟となってくださったことを思い、このわたしが罪をゆるされ、イエスの兄弟姉妹とされ、神の子とされたことに心から感謝したいと思います。
 「見よ、神の小羊」。
 わたしたちはヨハネの指し示した方を見つめます。そしてこの方を見つめながら、わたしの周りにいる人、わたしの出会う人がどんな人種・国籍・民族、どんな状況にある人であっても、皆、兄弟姉妹であることを深く悟らせていただけきたいと心から願います。
 「見よ、神の小羊」。
 わたしたちは今日も、ミサの中でパンのかたちでいてくださるイエスを見つめます。聖体のイエスに結ばれ、そのイエスと共に歩み続けることができるように、心を合わせて祈りたいと思います。

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