毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第3主日のミサ



昨日の朝の雪。
積もったのはほんの少しでしたが、寒さのために日陰では凍ってしまって溶けません。
朝はミサに来る人のために雪かき。午後は明日の幼稚園児のために雪かき。
いい汗かきました。

●年間第3主日 (1/18-25 キリスト教一致祈祷週間)
 聖書箇所:イザヤ8・23b~9・3/一コリント1・10-13, 17/マタイ4・12-23
                       2017.1.22原町教会
 ホミリア
 今日の福音でマタイはイエスの福音告知の活動の始まりを伝えています。そこで引用されるのは第一朗読で読まれたイザヤ書の言葉でした。マタイの引用ではこうです。
 「ゼブルンの地とナフタリの地、
 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
 暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
 「異邦人のガリラヤ」この言葉はどんな響きを持っていたのでしょうか。

 紀元前10世紀、ソロモン王の死後、イスラエルの王国は南北に分裂していました。イザヤは紀元前8世紀、南のユダ王国で活動した預言者です。紀元前721年、サマリアを中心とした北イスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされました。イスラエルの12部族のうち、10の部族がこの北イスラエル王国に属していました。エルサレムを中心とした南のユダ王国に残ったのはユダとベニヤミンだけです。今日の聖書朗読にある「ゼブルン」や「ナフタリ」はガリラヤ湖西岸に住んだ部族ですが、アッシリアによって征服され、異邦人が入ってきた地でした。多くの人は異邦人との混血になったとも言われています。イザヤはユダ王国の預言者でしたから、そのイザヤから見れば、もう「異邦人のガリラヤ」というしかない状態になっていました。都であるエルサレムから完全に切り離されてしまった土地です。「暗闇」「死の陰の地」とまで言われています。中央からも神からも切り離されてしまったかのような救いの見えないその地方に、神はいつか救いがもたらしてくださる、とイザヤは預言したのです。

 その後、南ユダ王国のほうも紀元前6世紀にバビロニア帝国によって滅ぼされてしまいますが、バビロン捕囚という厳しい経験を経て、パレスチナに帰還を果たします。パレスチナに戻ったユダヤ人のうちからかなりの人々がガリラヤに移住し、ユダヤ人の町が作られていきました。ガリラヤ地方はガリラヤ湖の近くで緑豊かな地。気候も温暖でした。山は青く、豊かな農業生産をもたらし、ガリラヤ湖の水は清く、水産資源も豊富でした。ガリラヤ地方というのはサマリア地方よりもさらに北、エルサレムから遠いところにあるのですが、民族的・宗教的にはユダヤ、エルサレム神殿とのつながりを保っていました。一方で異邦人との接触も避けられない地でもありました。
 
 イエスの時代、エルサレムを中心とするユダヤの人から見れば、ガリラヤの人は田舎者であったと言わざるをえません。話す言葉も少し違っていたようで、差別の目を持って見られていました。
 ヨハネ7・40-42。「群衆の中には、(イエスについて)『この人は、本当にあの預言者だ』と言う者や、『この人はメシアだ』と言う者がいたが、このように言う者もいた。『メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。』」 さらに、ヨハネ7・52。「彼らは答えて言った。『あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。』」
 やはり切り離された地方だったと言えるでしょう。

 イエスご自身はガリラヤで育ちました。そして洗礼者ヨハネに近づくためにユダヤ地方に出ていきますが、洗礼者ヨハネが捕らえられると、ガリラヤに帰ってご自分の活動を始めることになりました。何か新しい運動を始めようとするならユダヤ、エルサレムの近くで始めた方がよかったかもしれません。でもイエスはガリラヤから始めました。「切り離された土地」。エルサレムの富や繁栄、そして宗教的なエリートたちから遠く離れた場所で、イエスは神の国の福音を告げる活動を始めたのです。

 そのころ、多くの人は、神の救いに対する希望を見いだせずにいました。当時のユダヤ宗教の中心であったのはエルサレムの神殿であり、エルサレムに住む律法学者のような宗教的エリートたちでした。この人々から見れば、ガリラヤはまったく救いから程遠い地。彼らの目にはガリラヤなどないも同然でした。
 「あそこからは預言者は出ない」そう言われた地からイエスは活動を始めます。「悔い改めよ、天の国は近づいた」今日の箇所で、マタイ福音書はイエスの伝えた福音をこう要約します。「国basileia」は「王basileus」から来ています。「天の国(=神の国)の到来」とは、別な言葉で言えば「神は王となる」とうメッセージなのです。
 現実には神でないものが王になっていました。それはローマ皇帝でり、ヘロデ・アンティパスというガリラヤの領主であり、あるいはファリサイ派・律法学者のような宗教的エリートでした。貧しい多くの民衆はその支配に苦しめられ、自分たちは神からも見捨てられていると感じざるをえませんでした。

 その人々に向かって、イエスは神が王となるというメッセージを伝えたのです。神はあなたがたを決して見捨てていない。神は、貧しい人、弱い立場の人、暗闇の中にいる人、死の陰の地に住む人、ユダヤやエルサレムから切り離された土地に住む人、その一人一人を決して見捨てることなく、その人々の王となって、その人々にご自分の国を与えてくださる。これがイエスの告げた希望の福音でした。
 「神の国」というと大げさなメッセージに聞こえるかもしれません。でもイエスは小さなところからこの神の国を始めました。イエスが最初にしたことは仲間づくりです。ガリラヤ湖畔にいた四人の漁師に声をかけ、彼らを弟子にしました。この四人はイエスの呼びかけに応えた人です。「わたしについてきなさい」という呼びかけよりも先に「悔い改めよ、神の国は近づいた」。この呼びかけに応えた人なのです。

 この呼びかけは、人間がそれを受け取り、応えた時に実現するメッセージなのです。いつも思いつくのが結婚のたとえなのですが、誰かが誰かに向かって、「わたしと結婚してください」と言い、相手が「はい」と答えた時に、この呼びかけ・メッセージは現実になりますね。「神の国」のメッセージもそう。あなたに呼びかける。本気でそれを受け取って、本気で応えたときに神の国は実現していくのです。
 どうせ人生こんなものさ。神様なんているかいないか分からない遠い存在さ。俺たちにはたいした希望も幸せもあるはずないさ。そう思っていた人が、「そんなことはない。神に希望を置きなさい。神はあなたがたの王となり、あなたがたをご自分の国に招いてくださっているのだ」イエスのこの福音に彼らは応えたのであり、彼らが応えた時に、神の国は現実のものとなっていったのです。

 わたしたちは今、福島にいます。昔からいる人も、最近きた人も。わたしなどは「いる」と言えるほどのものでもありませんが、でもとにかく、福島にいます。福島は何となく日本全体から切り離されて、置いていかれているように感じるという声を聞くことがあります。イエスの時代のガリラヤのよう? その福島で、浜通りで、相馬・南相馬・浪江で、わたしたちはあのイエスの呼びかけを聞きたいのです。
 「神は決してあなたがたを見捨てていない。
 あなたがたは闇の中、死の陰の地に住むものではない。
 神はあなたがたにこそご自分の国を約束してくださる。
 それは神と人とがつながり、人と人とがつながって支え合う国だ。
 わたしと一緒に歩んでいこう。そこにもう神の国は始まるのだから。」


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