毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第5主日のミサ



映画『沈黙』は先週見てきました。
いろいろ考えさせられる作品ですが、
わたしとしては、キリシタンたちの信仰の根本に
「すべての人に神の子としての尊厳がある」という福音があったと信じたいです。

●年間第5主日
 聖書箇所:イザヤ58・7-10/一コリント2・1-5/マタイ5・13-16
                               2017.2.5原町教会
 ホミリア
 今日は日曜日なので主日のミサをささげていますが、この2月5日という日は、日本26聖人殉教者の祝日です。1597年のこの日、豊臣秀吉の命令により、キリシタンの司祭、修道者、信徒合わせて26人が長崎・西坂の丘で処刑されました。これとは別ですが、今週の火曜日に大阪で高山右近の列福式が行われます。右近は秀吉の禁教令に従わず、信仰を貫いたために、大名としてのすべてを失いました。1614年、徳川家康の禁教令のために国外追放となり、1615年2月3日、追放の地フィリピンで亡くなったため、今回、殉教者として列福されます。さらに言えば今、日本各地でマーティン・スコセッシ監督の『沈黙』というアメリカ映画が上映されています。それはもっと時代の下った1630年代、迫害が厳しさを増す中での「転びバテレン=背教司祭」の物語です。
 そういうわけでやはり日本のキリシタン時代のことを思わずにはいられません。そしてその時代を思う時に、もっとも強くわたしの心をゆさぶるのは、ルイス・デ・アルメイダという一人の宣教師のことです。

 アルメイダは16世紀のはじめ、ポルトガルのリスボンに生まれました。彼はポルトガルで医師免許をとりましたが、大航海時代という時代の流行に乗って、貿易商になる道を選び、アジアにやってきました。インドのゴア、マラッカ海峡、マカオなどでの貿易で巨額の富を築き、日本にもやってきました。そこで彼はショッキングな事実を知ります。当時日本では貧しい人々が、子供が生まれても育てることができないと考えると、間引きや赤ちゃん殺しをしていたのです。アルメイダはそんなことがあってはならないと思い、豊後府内(今の大分)で乳児院を開きました。彼は自分の生き方を見つめ直し、全財産をイエズス会に寄付してイエズス会士になりました。そして、府内病院を作りました。それは日本で最初の西洋医学に基づく病院でした。そこには内科や外科の一般病棟と別にハンセン病の病棟がありました。当時の日本で打ち捨てられていたハンセン病患者の世話をしようと考えたのです。また当時の日本の医者はお金のある人しかかかることができませんでしたが、アルメイダの病院は診療と治療がすべて無料で貧しい人も医療を受けることができました。このアルメイダの活動がどれほど大きな意味を持ったか、想像できるでしょうか。
 当時の日本は戦国時代で、人のいのちはほんとうに軽く見られていました。その中で一人一人の人間が神の子としてかけがえのない尊厳を持っていることを、キリスト教は伝えたのです。

 それは2000年前にイエスがガリラヤの丘で伝えた福音でもあります。イエスは今日の福音で語りかけます。「あなたがたは地の塩、世の光だ。」そこにいたのは「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(マタイ4章24節)たちでした。弟子と言っても皆漁師で、特に優れたところもない、無学な普通の人たちでした。律法の基準でいえば取るに足りない人、まったく罪人であって価値のない人。その人々に向かってイエスは「あなたがたが地の塩、世の光だ」とおっしゃっている。その福音をしっかりと受け取りたい。

 ただこの言葉は重荷だという人もいるようです。「地の塩、世の光」というのは「人の役に立つもの」と聞こえる。塩は他のものに味をつける、役に立つもの。ともしびは周囲を照らす、役に立つもの。そんなふうにあなたも役に立つものなのだ、と言われても、自分はとてもそうは思えない、と感じる人は少なくないかもしれません。
 もちろん、人の役に立つということはとても大切なこと。自分は人の役に立っているという思いはわたしたちに生きがいを与えます。わたしたちの近くには、地震や津波や原発事故で家を奪われ、仕事を奪われた人たちがいます。そして「もう自分は何の役にも立たない」と感じている人がいます。それはとてもつらいことですね。そういう人に生きがいを取り戻させるにはどうしたらいいか? 自分も何かしら人の役に立っているのだというふうに感じてもらうこと、それはもちろん大きな課題です。

 でも「役に立つか立たないか」ということを絶対の基準にしてはいけないのではないかとも思います。今の社会では「役に立つか立たないか」で人が厳しく計られます。どれだけ仕事ができるか、それだけ稼ぎがいいか、どれだけ人の役に立つか、で人を見るのです。でも本当はそれだけじゃない。赤ん坊が何もできなくても、病人が世話をされるばかりでも、高齢者が弱っていっても、でもそれで人間の価値が小さいというわけではない。あなたも大切な塩。あなたもすばらしい光。イエスは無条件にそう言ってくださるのです。そのイエスの眼差しを、神の眼差しをわたしたちは自分についても感じたいし、人にも伝えたいのです。

 イエスご自身は人々を助け、励まし、多くの人の期待を集めていきました。「神の国が到来する」というメッセージは、当時のユダヤ人にとっては、「この人がローマ帝国の支配を打ち破る王ではないか」という期待にもつながりました。弟子たちの中にもそういう救い主への期待がありました。でもイエスはその期待に背いていきます。何の役にも立たない者として、裏切られ、見捨てられて、十字架にかかりました。人間的な目で見れば何の役にも立たないように見える十字架。でも神から見れば、その十字架のイエスこそが「世の光」だったのです。
 人間的な見方を超えて、神から見れば、このわたしもかけがえのない塩、すばらしい光なんだ。わたしが出会う人すべてがやはり塩、光なのだ。そのことに対する信頼を深く持つことができますように。祈りたいと思います。


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