毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第7主日のミサ



聖堂入口の聖水入れが壊れてしまっていたので、東京・四谷のピエタで新調しました。
カトリック信者にとって洗礼の恵みを思い起こすための水ですが、
すべての人にとって、心を清めて祈る姿勢を整えるための水でもあります。
さて説教メモ。

●年間第7主日
 聖書箇所:レビ19・1-2、17-18/一コリント3・16-23/マタイ5・38-48
                           2017.2.19原町教会
 もう亡くなられましたが、広島教区に早副穣神父という方がいました。わたしの中では「早副神父」ではなく、「早副院長」と言ったほうがぴったりとします。わたしの神学生としての生活6年間のうち5年、早副神父は東京カトリック神学院の院長だったからです。わたしは神学校に入った時、洗礼を受けてからまだ日が浅く、カトリックのことをほんとうに何も知りませんでした。神父になるためにどれほどたいへんなことが要求されるのか、自分はそれに応えることができるのか、まったく分からなかったので不安でした。

 聞くところによると、昔の神学校にはいろいろな規則があったそうです。基本的に外出は禁止、週に一度、「義務散歩」の日があるけれど、一人で好きなところに行けるわけではない。二人一組で散歩して、屋根のあるところに入ってはいけない。そういう規則があったと聞いたりはしていました。ところが神学校に入ってみたら、規則というものはほとんど何もありませんでした。第二バチカン公会議があり、学園紛争があったりした後の時代で、古い規則ずくめの神学校は崩壊していたのです。もちろん外出は自由。門限は一応夜9時だったと思いますが、ほとんどの神学生は玄関の鍵を持っていて、何時に帰ってきてもOKでした。
 神学院ですからもちろん毎朝ミサがあります。
 あるとき、一人の神学生が「ミサに出るのは義務ですか」と院長に聞きました。
 早副院長はめずらしく厳しい口調でこういうことを言いました。
  「君は義務だったらミサに出て、義務でなければミサに出ないのか。わたしたちはそんな義務か義務ではないかの世界に呼ばれたのか。そうではない。わたしたちは神の恩寵の世界(はかりしれない神の恵みの世界)に呼ばれたのだ。そのことが分かれば、ミサとはその恩寵の世界を生きることそのものではないか。義務であるか義務でないか、そんなことを問うてはならない。それを問うのであれば、君が神学校にいるのは義務ではないのだから、出て行ったらいい」

 わたしはその言葉を聞いて、本当にこの神学校に入って良かったと思いました。与えたれた神の愛、神の恵みに精一杯応えていけばいい。結果、神父になれるかどうか、そんなことよりも、今日精一杯、恩寵の世界を生きればいい。そう思えたので、神学校の時代は楽でした。いやもちろんいろいろあるのですよ。人間関係の問題で難しさにつきあたったり、古めかしい哲学や神学に幻滅してみたり。でも、基本的に与えられた恵みの中で精一杯生きればいい。これはわたしにとって本当に福音でした。

 今日の福音、イエスはたいへんな要求をしているように感じるかもしれません。
 「だれかがあなたの右の頰を打つなら、左の頰をも向けなさい」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」
 どう受け止めたらよいでしょうか。とにかくそれがイエスの教えだったら頑張ってやらなければ、という人もいるでしょう。いや、自分には無理だ。だから自分はどうせ立派なキリスト者にはなれっこない、という人もいるでしょう。あるいは、こんな無茶な要求をする宗教にはついていけない、という人もいますね。
 気持ちは分かります。でも、今日の福音の中でイエスが神について語っている言葉はとても大切だと思います。
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」
 この無条件の愛が、わたしたちに注がれ、わたしたちはその計り知れない神の恵みの中で生かされているではないか。その恵みの中を生きるなら、わたしたちの生き方はもっと違うものになるのではないか。イエスはそう語りかけているのではないでしょうか。ここでイエスが語っているのは、義務として守らなければならない新しい律法ではなく、恩寵の世界、神の恵みの世界を生きる生き方なのです。

 じゃあ、お前はその恵みの世界に本当に生きているかと言われれば、「はい」と言えない自分もあります。11年間、東京で補佐司教として働いていた中で、やらなければならないことがどんどん増えていって、自分にはそれをきちんと実行していく力がなく、どうにも行き詰まってしまっていました。最低限の義務を果たすだけで精一杯、それも満足にできない、という状態だったのです。それでお休みをいただくことにして、まず横浜教区の教会、そしてこの原町教会に来させていただくことになりました。その中で、わたしはもう一度神の恵みの世界を生きるということを取り戻そうとしています。

 人間、義務としてやらなければならないことはあります。皆さんもそうでしょう。でもイエスがわたしたちを招いているのは、義務だから、仕方なくやらなければならない、というだけの世界(逆に言えば、義務さえ果たせば、あとは好きなことをして楽しめばいい)、そんな世界ではないのです。本当に神のいつくしみに出会い、神の恵みを知り、神のゆるしの中で生かされて生きる。そういう世界です。このミサをとおして、わたしたちが、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」イエスの父である神のいつくしみに出会うことができますように。アーメン。


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