毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

四旬節第5主日のミサ



「まもなく終点、浪江に到着いたします」
避難指示解除に伴い、4/1、常磐線小高〜浪江間が6年ぶりに開通し、その初日の電車に乗って来ました。
避難指示が解除され、電車がとおっても、それで原発事故が終わったわけではありません。
これから先、被災者にとってもっと厳しい現実が待ち受けているように感じています。
どうか、どうか、全国の皆さん、忘れずにお祈りください。

●四旬節第5主日
 聖書箇所:エゼキエル37・12-14/ローマ8・8-11/ヨハネ11・1-45
 2017.4.2原町教会

 ホミリア
 「わたしは復活であり、いのちである」
 これが今日のイエスの宣言です。イエスは親しい友であるラザロの死を前にして、兄弟の死を嘆き悲しむマルタに向かって、こう宣言しました。そしてラザロをよみがえらせました。単なる奇跡物語というのではなく、この四旬節を過ごす中で、わたしたちは今日の物語をとおして、「復活であり、いのちであるイエス」により深く出会うよう、招かれています。

 聖書はいのちというものをただ単に生物学的に生きているいのちとは見ません。一つの体の中で完結していて、ある時始まり、ある時消滅する、それだけのものとは見ません。あくまでも、いのちを神とのつながりの中に見るのです。
 創世記2・7にこうあります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
 人はこの神によって生かされている者です。そこから三つのことが出てきます。

 一つはいのちの平等性です。どんないのちも例外なく、神によって造られ、神によって生かされているいのちだから、すべてのいのちは神の前にとうといものです。あの人のいのちはこの人のいのちより尊いとか、あの人のいのちはこの人のいのちより価値がない。そういう見方をわたしたちはしません。
 現実の世界ではそうとは限りません。どんないのちも尊重されているかといえば、そうでない現実がたくさんあります。大人の都合・身勝手に左右される幼いいのちがあります。経済的な格差が広がり、ある人々はまるで存在する価値がないように粗末に扱われています。危険で健康を害するような仕事をせざるを得ない人もいます。だれからも見捨てられた難民やホームレスの人が世界にはたくさんいます。きょうの福音で「イエスは涙を流された」と伝えられていますが、復活して今も生きておられるイエスは、今この時に、そうした人々を見て、涙を流しておられることでしょう。どんないのちもかけがえのない大切ないのち、わたしたちは聖書からそう教えられ、そのことを大切にします。

 すべての人が神によって生かされているというところから出てくるもう一つの確信は、いのちは肉体の死で終わらないという確信です。
 旧約聖書の中で「復活」という考えがはっきりと出てくるのは、紀元前2世紀のことです。今日の第一朗読は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代の預言ですが、これは個人の復活というよりも、死んだ骨のようになったイスラエル民族の再生のことを語るたとえだと考えられています。はっきりと個人の復活が語られるのは、紀元前2世紀、セレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネスという王がイスラエルを支配していた時代のことです。激しい宗教迫害がありました。エルサレムの神殿にはギリシアの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人たちは先祖伝来の律法に従った生活することを禁じられました。神に忠実であろうとすればするほど、苦しみを受け、中には殺されていく者もいる。その時代の中で神はご自分に忠実なものを死を超えて救ってくださる、という希望が生まれます。これが復活の希望でした。
 なんとなく、死後の世界はどうなっているのか、という興味から復活が語られたのではありません。現実は苦しみに満ちている。神を信じれば信じるほど苦しみが増す。それでも神に信頼を置き、人を愛して生きることに意味があるのか。その切実な現実の中で、たとえ現実がどんなに悲惨に見えても、神はわたしたちを見捨てない。肉体の死を超えて、神はわたしたちにいのちを与えてくださる、これが復活の希望であり信仰です。

 神とのつながりの中でいのちを見たときに、見えてくる三つめのこと、それはいのちが他のいのちとのつながりの中でこそ輝くということです。一人一人の人間の体の中にいのちがあってそれぞれが孤立しているのではなく、神とのつながりによっていのちは生かされているものであり、自分のいのちだけでなく、他の人のいのちとつながる中で本当にいのちは輝く。そのつながりの根底にあるものは「共感」と言っていいと思います。英語で言えばcompassionです。comはラテン語から来ていて「〜とともに」という意味。passionは「苦しみ」です。だからむしろ「共苦」と言ったほうがいいかもしれません。他人の苦しみを自分の苦しみにする、深く共感する、そこにいのちが輝く。なぜなら神こそが、イエスこそがわたしたちの苦しみ・痛みに本当に共感してくださる方だからです。四旬節第三主日の福音で、サマリアの女に出会い、「水を飲ませてください」と言って、彼女の渇きに共感したイエスの姿。第四主日の福音で、生まれながら目の見えなかった人の苦しみを見過ごさず、安息日であっても彼をいやしたイエスの姿。そして今日の福音でラザロの死と嘆き悲しむ人々の姿に心揺さぶられ、涙を流されたイエスの姿。この徹底した共感、共苦の中にこそイエスのいのちは輝いていたのです。

 福音はこのイエスとの出会いの物語です。二千年前の物語ですが、わたしたちが今日、このイエスに出会うように、と招いています。今日の福音をとおして、今日のミサをとおして、いのちであるイエスに出会い、イエスにより深く結ばれますように。アーメン。


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