毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

主の晩さんの夕べのミサ



寸暇を惜しんでお花見に(?!)

浪江町の請戸川です。ここは先日も「コスモス宮代」の皆さんと一緒に行きました。
その時は5分咲きでしたが、今日は満開。
6年ぶりにこの土手の桜を見上げる人々、、、やはり故郷の桜は格別なようです。

浪江町の一部は3月31日に避難指示解除になりましたが、
帰っている方はまだほとんどいらっしゃいません。

●主の晩さんの夕べのミサ
 聖書箇所:出エジプト12・1-8、11-14/一コリント11・23-26/ヨハネ13・1-15
                      2017.4.13原町教会
 イエスは逮捕され、十字架にかかる前の晩、弟子たちとともに最後の食事をしました。イエスはいろいろな場面で人々とともに食事をしてきました。徴税人や罪びとと一緒に食事をすることをとおして、神のいつくしみとゆるしのメッセージを伝えました。5,000人以上の大群衆とわずかなパンを分かち合う中で、ほんとうの豊かさの世界を示されました。弟子たちとはもちろん、いつも一緒に食事をしていたはずです。でもこの食事は特別な食事でした。それはたまたま最後の食事になったというのではなく、どうしてもこれだけは最後に弟子たちと一緒にしておきたいという食事だったのです。

 マルコ福音書やルカ福音書によるとイエスは不思議な仕方で、その食事の場所を弟子たちに示しました。マルコによれば、イエスは使いの弟子にこう言われました。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」(マルコ14・13-15) どこどこのだれそれの家に準備しなさいと言えば簡単です。でもそうではありませんでした。「水がめを運んでいる男」についていけ。当時、水汲みは女性の仕事でした。だから男性が水がめを持っていれば特別なしるしになります。その人についていけば分かる。暗号のような指示です。イエスはどこで過越の食事をするかをちゃんと手配していて、それを自分の弟子たちにも分からないようにした、ということでしょう。イエスには受難のときがすぐそこに迫っていました。だからこの食事の場所が分かってしまえば、その時に捕まる危険もあったのです。イエスはそれを知っていて、弟子たちの中から裏切る者が出ることもわかっていて、だから弟子たちにも場所を知らせなかったのでしょう。すべてを受け入れながら、でもその前にこの食事だけなしておきたかったわけです。
 ルカ福音書ははっきりとイエスの思いを伝えています。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」(ルカ22・15)この食事をしないことには、言わば「死んでも死に切れない」。この食事にかけたイエスの思いを今日このミサの中で受け取りたいと思います。

 その中でイエスが何をなさったか。わたしたちはよく知っています。パンを取り、「これはあなたがたのために渡されるわたしの体」と言って弟子たちに与え、またぶどう酒の杯を取って、「これはあなたがたと多くの人のために流されるわたしの血、永遠の契約の血」と言って、弟子たちに飲ませました。このパンとぶどう酒の杯をとおして、ご自分と弟子たちのつながりを永遠のものにしようとなさったのです。
 イエスは永遠に弟子たちとともにいてくださる。そのことの目に見えるしるしとして、この食事を続けることが弟子に託されました。司教や司祭に託されたとも言えますが、教会全体に、すべての弟子に託されたとも言えるでしょう。イエスの弟子たちは、イエスをとおして神に賛美と感謝をささげるために、特別な場所を必要としません。ただパンとぶどう酒さえあれば、そしてあのイエスの死と復活を記念して食卓を囲めば、イエスとつながることができるのです。パンとぶどう酒を用いてキリストを記念することは、弟子たちの根本的な使命となりました。わたしたちはイエスの弟子となるために、まず洗礼を受けました。そしてイエスの弟子として生き続けるために、聖体祭儀を行うのです。

 もちろん、このパンを裂く式を儀式的に繰り返せば良いのではない。このことを行いながら、これの意味することを本当に深く受け取るように、これがイエスの思いでした。
 パウロは一コリント11章で、まさにこの問題を問いかけています。コリントの教会にあった問題は、ある人は食べて満腹し、ある人は食べ物がなくて飢えている、という問題でした。パウロは、そんな状態で本当に主の晩さんを祝うことになるのか、と問いかけるのです。主の晩さんとは、わたしたちのためにご自分のすべてを与え尽くされたキリストの愛の記念ではないか。それを行っているわたしたちに愛がなくていいはずがない、貧しい人に無関心でいいはずがない。パウロはそう力説しているのです。
 ヨハネ福音書は最後の晩さんの席での話を長く伝えていますが、その中で、パンとぶどう酒の話はしないで、まったく違うエピソードを伝えています。それはイエスが弟子たちの足を洗い、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言ったエピソードです。さらに最後の晩さんの席での説教の中で「わたしの掟」「新しい掟」と呼ばれるあの掟を弟子たちに与えたことも。それは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という掟です。さらにイエスはこうおっしゃいました。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13・35)つまり、イエスのように愛する者となることがイエスの弟子の特徴だということを、イエスは最後の晩さんではっきりと教えてくれました。

 イエスの弟子たちは、2000年の間、この食事を繰り返してきました。「パンを裂くこと」、「主の晩さん」、「エウカリスチア=感謝の祭儀」といろいろの呼び方があり、いつしか普通に「ミサ」と呼ばれるようになりましたが、この食事をずっと続けてきました。これなしにわたしたちはキリストの弟子として生きられないからです(Sine Dominico non possumus)。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」イエスの弟子たちに対するこの特別な思いを込めた食事がこれです。
 今日、わたしたち一人一人、イエスの弟子としてこの特別な食卓に招かれたことを味わい、イエスの思いを受け止め、イエスの愛に結ばれて生きることができるよう祈りながら、主の晩さんを祝いたいと思います。


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