毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

聖金曜日 主の受難



浜通りの桜シリーズ。第二弾。
富岡町の、有名な「夜の森」の桜です。
大半は帰還困難区域で、立ち入ることのできるのはわずかな区間でした。
でも桜並木はみごとです。

●聖金曜日 主の受難
 聖書箇所:イザヤ52・13~53・12/ヘブライ4・14-16、5・7-9/ヨハネ18・1~19・42
                      2017.4.14カトリック原町教会
 ホミリア
 世界がどんどん暴力的になっていると感じるのはわたしだけでしょうか。
 シリアや北朝鮮をめぐる状況は非常に厳しいものがありますし、イスラム国を名乗るようなテロもあとを絶ちません。今週の日曜日、エジプトの2つの町でコプト正教会(非カルケドン派の正教会)を狙ったテロが起き、47人が犠牲になりました。聖週間に合わせて実行されたテロの報を聞いて、わたしたちは悲しみに襲われます。ISだけではありません。アメリカ、ロシア、中国、そして日本なども、自国の利益を守るために軍事力に頼ろうとする傾向が強まっています。
 もっと身近なところでは、凶悪な犯罪、特に弱い子どもや女性、高齢者を狙った犯罪も日々報道されています。さらにいじめや虐待、DVやパワハラなど、本当にいやになるほどの暴力がわたしたちの周りにあります。

 もちろん昔からそうだったとも言われるかもしれません。昔から人間は暴力の連鎖から抜け出せずにいるとも言えるのは確かです。
 わたしたちはとにかくそういう暴力が暴力を生む、暴力の連鎖がいやというほど感じられる現実の中を生きています。
 歴史を振り返って見て、暴力が問題を何も解決しないことをわたしたちは知っています。暴力は憎しみを生み出し、憎しみはまた新たな暴力を生み出します。暴力は暴力の連鎖しか生み出しません。そしてそう知りながらも、この世界は暴力の連鎖から抜け出せずにいるのです。

 そんな中で今日、イエスの十字架を見つめます。
 イエスこそ、まさに暴力の被害者でした。マルコやマタイは、受難のイエスが無力でただ苦しむ人になっていった姿を伝えています。ルカはその中で最後までイエスが示した積極的な生き方を伝えてくれますが、ヨハネの伝える受難のイエスは、さらにもっと十字架の死に向かって自ら積極的に歩んでいくような雰囲気があります。
 イエスが逮捕された時に、ペトロは持っていた剣で大祭司の手下に打ってかかった。しかし、イエスは「剣をさやに納めなさい」と言って、それをやめさせた。そしてその後のピラトの取り調べの場面ではこう言いました。「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」この世は力関係で動いています。強いものが勝利を得る、それがこの世の原理です。しかし、イエスはそういう原理を認めません。この世の原理と違う神の原理によってイエスは生きているのです。そのことをはっきりと主張しています。この世の力がすべてではない。この確信をイエスは持ち続け、語り続けました。イエスは受難の場面で、武力で抵抗しませんでした。でもそれは単なる無抵抗ではありません。今風に言えば、「非暴力の抵抗」と言ったらいいでしょうか。

 ヨハネ福音書の受難物語でもう一つ特徴的なのは、母マリアと使徒ヨハネとのエピソードでしょう。息を引き取る前、イエスは自分の弟子を母にゆだね、母を弟子にゆだねました。13章のはじめに、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」という言葉がありました。「この上なく」と訳された言葉は「最後まで」という意味にも取れます。この最後のぎりぎりのところでマリアを弟子に与えたのです。それは弟子に対するものすごい信頼だと言えるのではないでしょうか。また、「わたしの母があなたの母になる」ということは、「わたしたちは本当に兄弟なのだ」ということでもあります。イエスの弟子に対する極限までの愛とはそういう深い心の交流を意味していたのです。
 もう一つ、特徴的なのは「渇く」という十字架の上での叫びです。これは詩編の言葉と言ってもいいかもしれません。苦しみの中から神に祈った旧約の人々は「わたしは渇き果てています」と神に訴えました。イエスはすべての苦しむ人、暴力を振るわれている人、全てを剥ぎ取られている人。その人々とつながって「渇く」のです。

 この愛と連帯の姿がヨハネ福音書の受難のイエスの特徴です。だから最後の言葉は「成し遂げられた」なのです。イエスの十字架において、暴力は最高潮に達しました。この世の原理、力の原理、ご暴力の支配がすべてを覆っているように表面的には見えます。しかし、本当はそうではない。
 イエスが非暴力の抵抗を貫き、極限までの弟子たちへの愛と、苦しむすべての人への連帯を示された中に、そこにこそ、暴力と罪と死の支配を打ち破る道が開けたのです。だからヨハネ福音書のイエスは「成し遂げられた」と言って息を引き取られたのです。
 罪と死と暴力の支配に打ち勝ったイエスの十字架を今日、見つめ、あがめ、たたえましょう。


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