毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第3主日のミサ



毎度ながらのミサ説教原稿ですが・・・

●復活節第3主日
 聖書箇所:使徒言行録2・14, 22-33/一ペトロ1・17-21/ルカ24・13-35
 2017.4.30カトリック原町教会

 ホミリア
 復活祭から七週間にわたり、キリストの復活をお祝いしています。キリストの復活を祝うということは、2000年前にイエスの墓が開いて、奇跡のようなことが起こったと信じることではありません。イエス・キリストが今も生きていて、わたしたちとともにいてくださると信じることです。復活のキリストはどのように共にいてくださるのか。きょうのエマオの弟子の物語はそのことについてとても豊かなヒントを与えてくれます。

 まず、聖書の言葉をとおしてイエスはともにいてくださる。
 見知らぬ旅人の姿で弟子たちに近づき、彼らの話を聞いたイエスは、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」とおっしゃり、「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とあります。
 イエスの受難と死も、またそれをとおして受けることになる栄光も、聖書に示された神の救いの計画の中にあったのだということです。そのことを、旧約聖書のみことばをとおしてイエスは示されました。今もそうです。わたしたちは旧約聖書だけでなく、新約聖書、特に福音書を持っていますから、神がイエスを世に遣わしてどれほど人間を愛してくださったかを知ることができます。そして聖書をとおして、神が今もどのように人を愛し続けているかを知ることができます。そのことに気づくためにわたしたちは聖書を読むのです。現実はいい時ばかりではありません。悲惨なこともたくさんあります。でもその中で神はわたしたちを導き続け、最終的に復活のいのちの喜びに導いてくださる。そのことを、聖書をとおして悟らせていただきたいと思います。このエマオの弟子たちはあとで気づきました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」本当に心に深く響くようにみことばを受け取ることができるよう、祈りましょう。

 もう一つこの物語で示されること、それはイエスは「パンを裂くこと」をとおして共にいてくださるということ。
 エマオの弟子たちがこの見知らぬ旅人がイエスだと気づいたのは、その人が「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」ときでした。イエスはいつも食事のときにそうしていました。5つのパンを5000人に分けたときもそうでした。イエスは「パンを取り、賛美の祈りを唱え」ることによって、このパンが神から与えられたもの、神がすべての人に必要なものを与え、生かしてくださる方であることを表しました。また「パンを裂いて与える」ことをとおして、この恵みは自分だけで独占すべきものでなく、皆と兄弟姉妹として分かち合って生きるべきものであることを示してくださいました。罪びとを招いて一緒に食事をしたときも、神が誰ひとり除外することなく、すべての人をいつくしむ父であることを示されました。そして最後の晩さんのとき、同じようにパンを裂き「これはわたしの体」と言い、ぶどう酒の杯を取って「わたしの血」と言われました。すべてを与え尽くしたイエスの愛を思い起こし、その愛に結ばれるために、この「パンを裂くこと」を続けるよう弟子たちに命じられました。
 わたしたちキリスト者は毎週集まって「パンを裂くこと」を行います。それは、イエスが復活して、今わたしたちと共にいてくださることを深く味わうためです。

 「みことば」と「パンを裂くこと」を通して、わたしたちはイエスが今もともにいてくださることを深く味わうことができます。
 今日の福音はもう一つのヒントを与えてくれているかもしれません。それは人と人とが「寄り添う」中に復活のイエスはいてくださる、ということです。
 この二人の弟子は失意のどん底にいました。彼らはイエスについてこう言います。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」もうすべての希望は絶たれてしまった。がっかりして弟子たちの集まりを離れ、エルサレムの都を離れ、自分たちの故郷に向かっていました。でも一人ではなく、なぜか二人一緒でした。互いに寄り添い、悲しみを分かち合う中で彼らは、次第にイエスに気づいていった、と言ってもいいのではないでしょうか。イエスのあの約束は今も無になっていない。イエスの言葉はわたしたちの中に生きている。無意識のうちに彼らはイエスに励まされていたのです。みことばとパンを裂くことで彼らははっきりとそれを意識するようになりました。
 そして彼らはエルサレムにいる他の弟子たちのところに戻って行きます。「時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」復活の喜びは孤立した一人の人間が感じることはむずかしいものです。復活の喜びとは、悲しみやつらさを分かち合い、共に生きようとするときにどこかから湧いてくる希望や喜びであり、その喜びは、さらに多くの人と一緒に分かち合うようになる喜びなのです。わたしたちの日々が、この復活の喜びに満ちたものとなりますように。

 昨日までの日々の中で、今日のみことばと聖体の食卓の中で、そして明日からの、また新たな歩みの中で、本当に主は復活して共にいてくださるということをわたしたちが深く味わうことができますように、このミサの中で祈りましょう。



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