毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第4主日のミサ



菜の花から採れる菜種油に放射能は含まれず、食用にできるとのことで、
南相馬市原町区のあちこちに菜の花畑があります。
今、まさに花盛りです。

相馬農業高校の高校生も参加して作られた南相馬の菜種油は「油菜ちゃん」という名で商品化されています。

●復活節第4主日、世界召命祈願の日
 聖書箇所:使徒言行録2・14a, 36-41/一ペトロ2・20b-25/ヨハネ10・1-10
 カトリック原町教会にて

 ホミリア
 皆さん、四旬節第四主日に読まれた、生まれつき目の見えない人のいやしの物語を覚えておられるでしょうか。ヨハネ福音書9章で、今日の福音ヨハネ10章の直前にあります。
 物語の発端は、イエスと弟子たちの一行が通りがかりに生まれつき目の見えない人を見かけたことでした。彼が生まれつき目の見えない人だということはどうして分かったのでしょうか。イエスが立ち止まり、その人に声をかけ、彼が話したからでしょう。イエスは最初から彼に関心を持っています。
 弟子たちはこのことが分かるとイエスに問いかけました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」弟子たちはこの視覚障害者を心配してそう言ったのでしょうか。そうではなく単なる知的興味だったのではないでしょうか。当時、病気や障害、なんらかの不幸は罪の結果である、という考えが一般的でした。普通なら本人が罪をおかすと本人に不幸がふりかかる。しかし、この人の場合は、生まれつきだからどうなのか。本人ではなく両親の罪の結果か。彼らは理解できない問題について、イエスに教えてもらい、イエスの答えを聞いて納得しようとしたのです。それは自分たちが納得するためであって、この目の前の人を助けるためではありませんでした。「結局、何らかの罪の結果だから仕方ないよね」これが弟子たちの見方であり、態度です。

 イエスは弟子たちに答えてこう言います。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」イエスは病気や障害が罪の結果であるという考えそのものを否定します。ではなぜこの人がこんな不幸を背負っているのか、実はイエスは答えていません。そうではなくイエスはその人に関わろうとするのです。「神の業がこの人に現れるため」というのは、この人の不幸の原因や目的を語っているのではなく、神がこの人に対して何かなさろうとしておられるという確信を表す言葉です。神は今この人に対して何をなさろうとしているか、そしてその中でわたしには何ができるか。イエスはそこだけを見つめ、そして彼に関わっていくのです。具体的には、イエスは彼の目をいやすことになりました。
 それは安息日のことでした。安息日は労働が禁じられた日で、イエスが安息日にこのようなことをしたのはイエスにとって非常に不利になることでした。目をいやされた人はファリサイ派の人々から取り調べを受けます。ファリサイ派の人々にとって、盲人だった人は、「全く罪の中に生まれた」(9・34)人間で、なんの価値もない人間でした。ファリサイ派の人々は、「安息日の掟を破る人間は神から来た人ではありえない」という大原則からイエスを理解しようとします。そして、この視覚障害者のことも、イエスのことも結局、認めようとしないのです。

 ここに決定的な違いがあります。イエスの弟子たちは、人の不幸をみて、なんとか納得できる説明を見つけようとして、それでその人の横を素通りしようとしました。当時のファリサイ派のような宗教熱心な人々は、律法の基準で人をはかり、視覚障害をもった人に罪びとのレッテルを貼り、安息日の禁を犯して人を助けたイエスにも罪びとのレッテルを貼ろうとしました。そして自分たちこそ正しい人間だという自己満足に浸っていたのです。
 イエスは違いました。イエスは目の前の人の苦しみを決して見過ごされませんでした。イエスにとって、相手が罪びとかどうかは問題でなく、神はこの人を限りなく愛しておられる、そういう人として関わることだけが問題でした。

 この9章の物語が背景にあって、今日のイエスの言葉があるのです。
 「はっきり言っておく」
 わたしは羊飼い。羊飼いは羊を知り、羊は羊飼いを知る。
 わたしは羊の門。わたしという門をとおってこそ本当のいのちが得られる。
 さらに今日の箇所の続きでは、「わたしは良い羊飼いである」(10・11,14)と言われます。そして「良い羊飼いは羊のために命を投げ出す」と言われるのです。
 この方がわたしたちの羊飼いです。この方はわたしたちのために命を差し出されましたが、復活して今も生きておられ、わたしたちを闇から光へと導き続けてくださる方です。

 私自身は若いころ、そういう方としてイエスに出会いました。自分の人生は無意味で、何をやってもむなしい、自分なんかたいしたことない人間、きっと何の役にも立たない。でもそんなこと恥ずかしくて誰にも言えない。学校にも社会にも自分の居場所が見つけられず、どんどん追い詰められていきました。本当に真っ暗闇で、光が見えない状態でした。
 でもイエスはこのわたしを見ていてくれた。かけがえのない神の子として見ていてくれた。わたしを呼んでくれた。そう気づいたとき、わたしは闇から光へと移されました。だからキリスト者をやっていますし、司祭をやっています。
 召命祈願の日である今日、本当にすべての人が良い牧者であるキリストの眼差し、呼びかけ、招きに気づき、それに応える者となることができますように。心から祈りましょう。

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