毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第6主日のミサ



熊本の慈恵病院で「こうのとりのゆりかご」が始まってから、ちょうど10年です。

わたしが訪問したのは2年前のことでした。これはそのときの写真です。

●復活節第6主日・世界広報の日
 聖書箇所:使徒言行録8・5-8、14-17/一ペトロ3・15-18/ヨハネ14・15-21
              2017/5/21カトリック原町教会
 ホミリア
 熊本にある慈恵病院は、もとはマリアの宣教者フランシスコ修道会(FMM)のシスターたちが始めた病院でしたが、今は修道会が母体ではなくなり、蓮田先生というカトリックの医師が院長(現在は理事長)になりました。ご高齢で健康が心配ですが。
 この病院は「こうのとりのゆりかご」で有名になり、わたしも一度そこを訪問したことがあります。新築した産婦人科のビルがとても立派な病院でした。その一角に「こうのとりのゆりかご」があります。赤ちゃんを産んだけれど、どうしても育てることができない、という母親がそこに匿名で赤ちゃんをあずけることができる場所です。赤ちゃんをそんなところに預けていいはずがない。でもそれがなければ遺棄され、死んでしまう赤ちゃんがいる。その赤ちゃんのいのちをなんとか救いたい。という蓮田先生の思いから、今からちょうど10年前の2007年5月、熊本市から許可を受けて始めました。
 日本では「赤ちゃんポスト」と呼ばれることがあって、親が簡単に養育放棄することにつながるというような批判もありましたが、話を聞いて本当に素晴らしい働きをしていると感じました。

 「こうのとりのゆりかご」に赤ちゃんを預けるのはほんとうに最後の手段で、それ以前に「赤ちゃんとお母さんの妊娠相談」ということをしています。24時間、予期しない妊娠して苦しんでいる女性の相談を電話で受け付けるのです。全国から電話がかかってくるそうです。必要な支援につながって、「こうのとりのゆりかご」まで至らずに、なんとか赤ちゃんのいのちを救うことができたというケースも多くあるとのことでした。
 蓮田院長の講演を聞いたことがあります。そこで蓮田さんが嘆いていたのは、「こうのとりのゆりかご」は子どもを望んでいる夫婦との間で養子縁組をするために預かるのに、児童相談所は実の親を探してその親に返そうとする。育てる気もなく、育てられない親に無理やり押しつけるより、養子縁組のほうがよほどよいのではないか。また欧米では施設の子どもたちを養子として育てようとする家庭が結構あるそうですが、日本で施設に預けられる子どもの数が年間3000人以上いるのに、「特別養子縁組」によって子どもが家庭に迎えられるのは、年間わずか400組だそうです。

 今日のイエスの言葉を読んで、この「こうのとりのゆりかご」のことを思い出しました。イエスは今日の箇所で「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と約束されます。弁護者であり、真理の霊である聖霊を遣わす。わたしがあなたがたのうちにいる。だから決してあなたがたはみなしごにはならないのだ、とイエスはおっしゃるのです。
 神はわたしたちを一人ぼっちで孤立無援にはしておかない、わたしたちは神がそういう方だと信じています。慈恵病院の取り組みもその信仰から出発しています。神はわたしたちすべての親であり、どんな小さないのちもいつくしみをもって見守り、そのいのちが生きることを望んでおられる。そう信じるところから「こうのとりのゆりかご」の取り組みは始まったのです。

 本当に神がわたしたちの親だということを深く受け取りたいと思います。神が親であって、どんな時もわたしたちを見捨てることがない、そう信じるからこそ、現実の親や家族や親しい人とのつながりが、その人たちの存在がありがたく思えるのだと思います。人間にすがるだけなら、もちろん赤ちゃんのときは親にすがることが必要ですが、その関係はいつか終わってしまうでしょう。神がほんとうの親であると信じるから、日々、人との関わりの中でわたしたち人間同士、お互いに誠実に、信頼し合いながら、支え合って生きることができるのです。
 きょうの箇所で「わたしを愛しているならばわたしの掟を守る」とイエスは言います。イエスの掟は「互いに愛し合いなさい」、それしかありません。本当に神がわたしたちすべての者の親として、わたしたちすべての者をいつくしんでくださるのですから、わたしたちもその神のいつくしみを人に届けるものでありたいと願います。

 もう一つ大切なことは、神はわたしの親だけでなく、すべての人の親だということです。自分たちのグループと他のグループ。自分たちと同じ考えの人と別の考えの人。自分の国とよその国。最近どんどんそうやって人と人の区別を強調することがひどくなっているように感じています。その中で味方が多ければ安心できる。味方が強ければ安心できる。さらにそのわたしたちのグループに、わたしたちの国に、神様がついていてくれたらもっと心強い、、、でもそれは自分たちが独占している神様ですね。イエスの教えた神様はそんな神様ではなく、すべての人の父です。だから自分たちに神がついていてくれて、他の人はみなしごになろうが、どうなろうがかまわない、ということはありえません。わたしたちは全ての人の親である神を信じています。そこからいつもこのミサの中で、すべての人のしあわせのために祈り続けたいと思います。

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