毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

主の昇天の祭日のミサ



写真は「さごはち(三五八)」という福島独特の漬物の素です。
塩3、米麹5、米8の割合で漬け床を作るのでこう呼ばれています。
ちょっと前から自分でやってみていますが、簡単でおいしいですよ。

さて、お知らせが1つ。
来週6月4日(日)は聖霊降臨の主日ですが、仙台教区第6地区の合同ミサが仙台の元寺小路教会で行われるため、原町教会ではミサがありません。お間違いなく。

ではいつもの説教原稿です。どうぞ。

●主の昇天の祭日ミサ
 聖書箇所:使徒言行録1・1-11/エフェソ1・17-23/マタイ28・16-20
       2017.5.28カトリック原町教会

 ホミリア
 きょうの福音はマタイ福音書の結びの箇所です。復活したイエスと弟子たちの出会いの物語はそれぞれの福音書にありますが、どの福音書にもイエスが弟子たちを派遣する言葉があります。
 マルコ福音書の結びでは、「全世界に行き、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)と言われます。ルカ福音書では「あなたがたはこれらのことの証人となる」(ルカ24・48)と言われますが、今日の第一朗読・同じルカが書いた使徒言行録ではもっとストレートに「地の果てに至るまで、わたし(=イエス)の証人となる」(使1・8)と言われていますう表現になっています。ヨハネでは「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20・21)でした。ヨハネで弟子たちに与えられる使命の中心は「ゆるし」です。
 今日のマタイ福音書では「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と語られます。マタイ福音書のイエスの活動はガリラヤ湖で4人の漁師を呼び出し、弟子にしたところから始まりました。その弟子づくりという活動が今度はイエスの弟子たちに受け継がれて行くのです。これまでイエスがしてきたことを、これからは弟子たちがやっていくことになる、これがそれぞれの福音書が伝える復活したイエスの派遣の言葉に共通していることだと言ったらよいでしょう。マタイは弟子づくりの具体的な内容を「洗礼を授け、教える」と言いますが、決して言葉だけの問題ではありません。自分の生き方をとおしてイエスをあかしし、神の愛を人に伝えること。それが復活したイエスによる弟子たちの派遣の意味でした。
 
 「派遣」は英語で言うと「ミッション」ですね。現代では「使命・任務」という世俗的な意味で使われていますが、元はラテン語の「送る、遣わす」という言葉から来ていて、本来の意味は「派遣」です。ミッションとは神から遣わされることを表す言葉でした。
 「ミッショナリー」という言葉もあります。「宣教師・宣教者」と訳されますが、本来の意味は「派遣された人」です。キリスト教徒があたりまえの欧米にあって、外国に行ってキリストを知らない人のため働く。それが特別な意味での「派遣」と考えられ、そういう人をミッショナリーと呼ぶようになったのです。この人たちが作った学校が「ミッションスクール」なんですね。でも派遣されているのは、特別な宣教師だけではありません。教会全体が神から派遣されたものであるということは大切です。
 「ミサ」という言葉もミッションと同じ語源です。ミサの最後に「派遣の祝福」があり、わたしたちはいつもミサから派遣されていきます。福音宣教の使命をいただいて世に遣わされるのです。でも、そう言ってもカトリック信者はあまり嬉しそうな顔をしませんね。そんなしんどそうな顔をしないでください。ミッションというのはほんとうは嬉しいこと、人生を輝かすことなんです。

 大聖堂の工事現場の話というのがあります。何かで読んだのですが、正確に覚えていません。こんな話です。
 ある人が大聖堂の工事現場に行きました。レンガを積んで壁を作っているところでした。そこで働いている人の一人に聞きました。「君はここでなにをしているの?」彼はつまらなそうに、こう言いました。「見ればわかるだろう。レンガを積んでいるんだよ」。他の人にも同じように「何をしているの?」と聞きました。彼も疲れた顔をして「壁を作っているんだ」と答えました。さらにもう一人の人に聞きました。「君はここで何をしているの?」すると彼は胸を貼り、目を輝かせて、「わたしはここで大聖堂を建てているんです」と言いました。
 3人とも同じことをしているのですね。最初の2人はお金のために仕方なくこの仕事をしているという感じ。でも3人目の人は、自分のしていることは、神様のためであり、この大聖堂ができあがったときに、そこを訪れ、そこで祈る人々のため。そう感じている。だから彼の顔は輝くのです。
 こういうのを「センス・オブ・ミッション」と言うのだとわたしは思います。「使命感」と訳すと何か重荷のように感じて、へたをすると悲壮感が漂いますが、「ミッションのセンス」です。「わたしのしていることは神から与えられた大切な仕事で、意味のあることなのだ」このミッションのセンスは人生を輝かせます。

 本当にこのミッションのセンスを大切にしたい。わたしたちの原町教会もそうです。
 浜通り北部にあるカトリック教会はこの原町教会だけですね。この教会は60年以上前にドミニコ会の宣教師が始めた。それから何とか存続してきた。わたしは昔からここに住んでいて、この教会に通っている。でも高齢化しているし、この先どうなるか・・・確かに人間的に見ればそうかもしれませんが、もっと大切なのは、この教会は、神から派遣されてここにあるということです。神様との関係の中では、なぜか不思議にも神はこの原町教会をこの相馬双葉の地域に置いている。それは神様の特別な意図があってのこと。神がすべての人を救うために、その愛を現すために、わたしたち原町教会はこの地域に派遣されている。このミッションの意識を大切にしたいのです。この意識なしで教会は輝くことができません。去年の12月にカリタス南相馬がこの教会の隣にできました。カリタス南相馬のシスターやスタッフは自分で選んでここに来ました。神が自分たちをここに置いたと感じています。ですから神はわたしたちを何のためにここに派遣したか、いつも問い続けています。でもそれは前からこの教会にいる信徒にとっても同じなのです。神様がこの地域にこの原町教会を派遣している意味は何か、そのことを問い続ける教会でありたいと思います。

 一人一人の生活もそうです。わたしたち一人一人の生活を本当に神から派遣された生活だと受け止めたい。わたしたちは毎回、ミサの中でキリストに結ばれ、キリストに結ばれたものとして派遣されていきます。明日からの毎日、わたしたちはただ何となく生きるのではありません。神から派遣されて、神の愛を伝えるために、イエスのこころを伝えるために、人を愛するために遣わされるのです。そのミッションを受け取れば、わたしたちの毎日は必ず輝くものになります。
 「でもやっぱりたいへんだなぁ」と思われるかもしれません。しかし、「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたとともにいる」これが今日のイエスの約束です。
 わたしたちが復活のイエスからいただくミッションをもっと深く、喜びをもって生きることができますように、祈りましょう。


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