毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第14主日のミサ



東仙台教会から40人以上のお客様、東京からもお客様。
皆さんを見送ってから、あまりにも暑かったので、残っていた人たちで一緒にアイスを食べました。

●年間第14主日
 聖書箇所:ゼカリヤ9・9-10/ローマ8・9、11-13/マタイ11・25-30
       2017.7.9カトリック原町教会
 ホミリア
 小高区が避難指示解除になって1年が経とうとしています。国は去年4月に解除することを提案しましたが、地元にはいろいろ意見があって、7月までずれ込んだそうです。7月12日になったのは、なんとか7月末の野馬追までには、ということだったようです。その日から常磐線原ノ町〜小高も開通しましたし、今年4月には学校も再開して、今では約2,000人の人が小高区に住むようになったと言われています。そして今年の野馬追では小高神社からも出陣式が行われ、カリタス南相馬のボランティアも参加するそうです。
 もともとはもちろん、軍事的な意味合いの強い祭りだったと思います。甲冑競馬や神旗争奪戦などもそういう色彩を残しています。しかし本来も宗教的な意味合いがあり、野に放った馬の中から1番のものを小高神社の神様に奉納するというのが祭りの頂点になっているようです。わたしは今年が初めてですので、楽しみにしています。

 日本では昔、馬は戦いの乗り物でしたし、古代イスラエルでもそうでした。そしてまた、馬は富や権威を表すもので、王は馬に乗っていました。今日の第一朗読のゼカリヤ書9章が書かれたのは、いつの時代かはっきりしませんが、紀元前3-2世紀でしょうか。少なくともこの時代、王は馬に乗っているのがあたりまえでした。その中で今日の第一朗読、ゼカリヤ9章9節はロバに乗ってくる王を預言しました。
 そこには二つの意味があります。
 一つはその王が戦争によって勝利を得るような王ではなく、平和の王であること。10節には、「わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。」という言葉があります。その王はまさに平和の王です。イエスが生涯の終わり、十字架にかかる前にエルサレムの都に入るとき、ロバに乗って入られたと福音書は伝えていますが、それはこのゼカリヤ書の箇所を意識的に再現したものです。当時の人々が期待していたような、軍事的にローマの支配を打ち破るメシアではなく、ほんとうに平和をもたらすためにわたしは来たとおっしゃりたかったのでしょう。
 もう一つは、ロバに乗る王の特徴は、富や権力で人を上から押さえつけるような王ではなく、貧しくへりくだった王であること。この貧しさを表すのが、第一朗読の「高ぶることなく」という言葉です。
 もともと普通は「貧しい」と訳される言葉です。元のヘブライ語の言葉は身をかがめて小さくなっている人の姿を表す言葉だそうです。経済的その他の圧迫で小さくなっている人=貧しい人の意味で使われますが、それだけでなく、自ら小さくなっている人=高ぶらない人、柔和な人の意味にもなります。

 なぜ、このようなことを話しているかと言えば、きょうの福音でイエスが「わたしは柔和で謙遜な者だから」とおっしゃる、この「柔和」という言葉は元をたどるとゼカリヤ書の「高ぶることなく」という言葉に行き着くからです。繰り返しますが、普通は「貧しい」という意味で使われる言葉です。
 もう一つの「謙遜」ですが、これは直訳すると「心において身分が低い」という言葉です。本来、この言葉には「柔和・謙遜」という心のあり方でなく、実際に貧しく身分が低いというニュアンスがあったのでしょう。そう思って読むとしっくり来るかもしれません。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは貧しく、身分の低い者だから、安心して、わたしの弟子になりなさい。」

 もう一つ、説明したくなる言葉があります。それは「軛(くびき)」という言葉です。軛と言っても現代人にはピンとこないかもしれませんが、牛やロバを二頭横につないで、重いものを引かせる、その横木のことです。いつも二頭立てです。イエスが「わたしの軛を負いなさい」というとき、それは一人で担うのではなく、イエスと一緒に担うというイメージが大切だと思います。イエスの重荷、イエスの軛は、十字架ですからとても軽いとは思えませんが、イエスが一緒に荷なってくださるなら、やはり軽いと言えるのでしょう。
 マタイ23章4節にイエスがファリサイ派・律法学者を痛烈に批判する言葉があります。
 「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」
 イエスは違うのです。わたしは貧しく、身分が低い。わたしのもとに来なさい。あなたの重荷をわたしは一緒に担おう。イエスはそうやって人を招いたのではないでしょうか。だから人は安心してイエスのもとに集まったのではないでしょうか。

 わたしたちの教会もそうありたいのです。この教会の道路に面した掲示板に、今月の聖句というのを掲げるようにしました。今月はもちろんこれです。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
 一年中これでもいいですね。この言葉が掲げてあるのはとても嬉しいことですが、でも覚悟がいります。どんな人でも歓迎します、っていう意味だからです。本当にどんな人でも歓迎する、それは大変なことです。それでもわたしたちはこの言葉を大切にしたい。イエスが今もすべての人に向かってそう呼びかけていると信じるからです。
 東北のある被災地でこういう言葉を聞いたことがあります。「震災が起こるまで、この町で教会は『特別な人がお祈りに行く場』でしかなかった。でも東日本大震災が起こって、カリタスのベースができて、町の人たちにとってもっと身近な場所になったのではないか。」わたしたちもそうでありたいのです。そういう教会に少しでも近づくことができるように、心から祈りたいと思います。



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