毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第15主日のミサ



暑い日が続いています。
ボランティアの屋外活動も、畑の草刈りもたいへんそうです。
みなさま、ほんとうにお疲れさまです。
熱中症にはくれぐれもご注意ください。

●年間第15主日
 聖書箇所:イザヤ55・10-11/ローマ8・18-23/マタイ13・1-23
   2017.7.16カトリック原町教会にて

 ホミリア
 カリタス農園というのがあります。カリタス南相馬のスタッフが地元の人から畑を借りて、いろいろな野菜を作っていますが、試行錯誤の連続のようです。今年はじゃがいもが大成功で、たくさん採れています。でも、けっこう失敗もあるようです。素人がやっているので、周りの地元の人は、黙って見ていられない。いろいろ口を出したり、手を出したりしてくださる。そうやって地元の人たちと交流できることが、このカリタス農園の一番の良さではないかと思っています。

 さて、きょうの福音は、種まく人のたとえです。種まく人といえば、ジャン・フランソワ・ミレーの絵を思い出す人が多いのではないかと思います。教科書にも載っていたし、岩波書店のマークとしても有名ですね。この絵では、畑一面に種を蒔いている感じです。ちょっと乱暴な感じ。日本でもこんな種まきをするでしょうか。カリタス農園ではしないでしょう。種がもったいないからです。土を耕して、ウネを作り、そこに穴をあけて、丁寧に種を蒔いて、土をかぶせる。それが普通だと考えるとミレーの絵は乱暴な感じがします。でも昔のイエスの時代のパレスチナでもこんな感じで種を蒔いたようです。畑をほとんど耕さずに、とにかく種を一面に蒔いてしまって、その後、地面を掘り起こすように耕すのだそうです。今日の福音で、ある種は道端に落ち、ある種は石だらけの土の少ない所に落ち、ある種は茨の間に落ち、とありますが、それでかまわない。こうするのは乾燥した土地のため、地中深くに種を入れないと干上がってしまうからだそうです。
 一見、無駄が多いように見える。しかし、こうすることによって、結局は多くの収穫がもたらされることになるのだ。これがこの種まきのたとえの本来のイメージだったのではないでしょうか。今の福音書のかたちを見ると、このたとえ話の中心はまかれた土地のあり方(良い土地か、悪い土地か)のように見えますが、本来の中心はどんな困難や拒絶の中でも、蒔き続ける農夫のほうにあったのではないかと思われます。そして、この種まく人のイメージはもちろんキリストのイメージです。

 何をイエスは、どんな種を蒔き続けたのでしょうか。それは「神の国」の言葉の種、マタイの表現では「天の国」の福音でした。
 神はすべての人のアッバ=親であり、あなたがた一人ひとりを限りなく大切にしてくださっている。病気であっても、貧しくとも、差別されていても、いらない人扱いされていても、あなたがたは皆神の子なのだ。だからその神に信頼して、お互いを大切にしあって生きていこう。それがイエスの神の国のメッセージでした。
 2000年前のガリラヤやユダヤでイエスはそのメッセージを語りました。そのメッセージは当時の貧しい人、病気や障がいをもった人、職業的にさげすまれていた人、一人前の人間と見なされていなかった女性や子どもに大きな反響を呼び起こしました。多くの人がイエスの周りに集まってきて、イエスに従いました。でも逆に自分の地位や富を誇っていた人、エリート意識にこりかたまった宗教家などには受け入れられませんでした。

 イエスは2000年後の今もみことばの種を蒔き続けています。わたしたちはそれを本当に喜んで受け入れているでしょうか。
 ふとわたしの頭に浮かんだのは、フランシスコ教皇が語る「実践的相対主義」という言葉です。使徒的勧告『福音の喜び』(2013)の80番にこういう箇所があります。
 「もっているはずの霊的な姿勢や考え方とは別のところで、司牧に携わる人たちには、教理的な相対主義doctrinal relativismよりも危険な相対主義が育っています。これはもっとも深く真剣な、生き方を決定づける選択の数々に影響を与えます。この実践的相対主義practical relativismの特徴は、神がいないかのように行動し、貧しい人々がいないかのように決めつけ、他者は存在しないかのように空想し、福音のメッセージを受けていない人はいないかのように働くことです。次のことに注目すべきです。教理的にも霊的にも固い信念を明らかにもっている人さえも、その使命において他者に身をささげるよりも、経済的安定に固執したり、権力の座や虚栄をあらゆる方法で求める活動に陥ってしまうのです。」
 「相対主義」とは絶対的なものはないという考えです。頭で神を認めていても、実生活では神などいないかのようにふるまう、それが実践的な相対主義です。神よりも、隣人との関係よりも「自分の生活を優先する」。それは現代の経済優先、消費主義、科学技術万能主義から来ている態度で、わたしたち皆、多かれ少なかれその影響を受けてしまっています。「いい生活がしたい」これがすべての人を動かす原理になってしまっているのです。そして自分のことを第一に考え、結局は他者を切り捨てる「無関心」に陥るのです。これは現代のわたしたちをおびやかす病だと思います。

 それでもイエスはわたしたちの心に、神の国の種を蒔き続けていてくださる。ほんとうにわたしたちを生かし、成長させ、豊かな人生へと導いてくれるものは何か、語りかけ続けてくださっています。
 第一朗読のイメージも大切にしたい。
 「雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。」
 今日すべての人に語りかけてくださるイエスの力強い言葉に、わたしたちの心を精一杯、開いていきたいと思います。


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