毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第20主日のミサ



6年間にわたり全村避難していた飯舘村の避難指示が3月31日にほぼ解除され、
8月12日には道の駅「までい館」がオープンしました。
道の駅といっても、当然のことながら、地元の産物はほとんど見当たりません。
唯一見つけたのが、このインゲンでした。お味はとても良かったです。

さて、いつもの説教メモ。よろしければどうぞ。

●年間第20主日
 聖書箇所:イザヤ56・1, 6-7/ローマ11・13-15, 29-32/マタイ15・21-28
             2017.8.20 カトリック原町教会にて
 ホミリア
 今日の第一朗読は、異邦人の救いについて語るイザヤ書56章の言葉です。民族宗教的な色合いの強い旧約聖書の中で、すべての国の民の救いへの希望が語られる大切な箇所です。そこには、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という有名な言葉が出てきます。
 パウロは異邦人の使徒と言われますが、今日の第二朗読では、同胞であるユダヤ人の救いについて語ります。ユダヤ人の中で生まれたキリスト教は、ユダヤ人以外に広がっていき、それとともにユダヤ人のほうがキリストを受け入れなくなっていきました。キリスト教は、自分たちこそ神の民であるというユダヤ人の民族的誇りを失わせると感じられたからでしょう。それを見て、パウロは心を痛めながら、語っています。そして最終的に、神は異邦人もユダヤ人も含めたすべての神の民(全イスラエル)が救われるというのがパウロの希望です。
 そして福音はイエスがカナンの女と出会い、彼女の娘の病気をいやしたという話です。
 ここでもすべての人を救う大きな神の救いのわざが語られています。3つの朗読の内容はつながっていますね。

 でもちょっと気になるところもあります。それは、イエスが最初、娘の病気を癒してくれるように願った異邦人の女性の願いを拒絶しているように感じられることです。
 「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」
 なんかすごい言葉です。しかし、福音書を見れば、それがどういう意味が分かります。
 当時のユダヤ社会の貧しい人、病人や障がい者、職業的に差別されていた徴税人など。牧者である神のそばにていて、神に守られているはずの羊が散り散りになり、弱り果てている。神がその人々を見失ったのではなく、周囲の人々(とくに宗教家たち)からこの人々は神から断ち切られていると見られ、自分でもそう感じざるをえなかった人々。これが「失われた羊」のイメージです。イエスが確信していたこと、人々に伝えたことは、神がすべての人のアッバ=父であるということでした。神はどんな人も見捨てることなく、迷子になった一匹の羊をも探し求めている方。そのことを自分の出会った貧しい人々に伝えることがイエスの使命でした。だから「イスラエルの失われた羊」が優先なのです。
 しかし、イエスは少数かもしれませんが、今日の箇所のように異邦人にも出会いました。その具体的な出会いの中で、イエスはこの異邦人、救いを求めて必死で自分に近づいてくる異邦人も、やはり神の「失われた羊」だということに気づかれたのだと言ったらよいかもしれません。

 新約聖書はギリシア語で書かれましたが、ethnosという言葉があります。「国民」と訳される言葉です。典型的なのはヨハネ11章。
 「50『一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』51これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。52国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」
 ここで言う「国民」はユダヤ人のことですね。
 ところがこのethnosが複数形ethneになると「異邦人」という意味になります。「諸国民」というのが言葉の意味ですが、この諸国民の中には、自分たちユダヤ人は入っていないのです。面白いですね。単数だと自分たち、複数だと他の人たち。「わたしたち」と「あの人たち」という感じです。
 もう一つ、よく出てくる言葉があって、それは「すべて」という形容詞をつけた「panta ta ethne」という言葉。これは「すべての国の民(万民)」の意味で、ここにはユダヤ人も異邦人も含まれています。「わたしたち」とわたしたちを含む「すべての人」。

 イエスも使徒たちも皆ユダヤ人であり、初代教会の問題として、救いはユダヤ人だけでなく、異邦人にも及ぶのか、という問題がありました。なぜその壁を乗り越えることができたかといえば、「わたしたちとあの人たち」という対立ではなく、「わたしたちとすべての人」という見方ができたからです。もちろんそれはイエスがわたしたちすべての者の父である神を示してくださったから可能になった見方です。と同時に、わたしたち皆が、ある意味で、「失われた羊」であり、神の助けを、救いを必要としている。そう感じるならば、「わたしたち」と「あの人たち」の対立は超えられていくのです。

 ユダヤ人か異邦人かという対立は大昔の話です。
 でも国籍や職業や学歴や性別、力のあるなし、障がいのあるなし、貧富の差によって人をグループ分けする見方は今もあります。自分たちのグループか、別のグループか、そうやって人を区別する見方が今もあります。そこに対立、争い、差別、排除が生まれます。しかし、「何か特定のグループか、それともその違いを超えたすべての人か」という見方で見るならば、わたしたち人類はもっと一つになれるのではないでしょうか。
 日本では長い間、キリスト教は外国の宗教だと言われてきました。いや今もそう言われてしまうことがあるかもしれません。外国から入ってきた宗教だから仕方ないのか、それを乗り越えるには、もっと日本人にあうようなキリスト教の表現をする必要があるのか。しかし、わたしたちは胸を張って言いたい。キリスト教は外国の宗教ではない。わたしたちの信仰の根本には日本人も外国人もない、すべての人間の父である神を信じるのです。
 今日もすべての人の父である神にこのミサをとおして賛美と感謝をささげましょう。


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