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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第22主日のミサ





九州に行ったついでに、福岡教区の2つの教会を案内していただきました。
一つは由緒ある「今村教会」(国の重要文化材)。今年は、今村の潜伏キリシタン発見から150年だそうです。
もう一つはお隣の「本郷教会」。福岡の豪雨災害のボランティア宿泊所になっていました。福岡の災害もたいへんで、まだまだボランティアが必要とされているそうです。

●年間第22主日・被造物を大切にする世界祈願日
 聖書箇所:エレミヤ20・7-9/ローマ12・1-2/マタイ16・21-27
        2017.9.3カトリック原町教会
 ホミリア
 この二週間、関西、関東、九州と駆け回っていました。3つのカトリック学校から『いのちへのまなざし増補新版』についての話を頼まれて行ってきました。きちんと準備もできなかったのですが、話しているうちにいろいろ考えることがありました。このメッセージはもともと21世紀を迎えるにあたって、いのちの大切さを多くの人、キリスト信者でない人々とも分かち合いたいという願いから2001年に発表されたものでした。今回は十数年たって、時代の変化に合わせた大幅な改訂が加えられることになりました。わたしは、その改訂作業にかかわっていたので話を頼まれたのです。「いのちの大切さ」といえば、誰もが賛成するでしょうが、このメッセージの説明を準備している中で、キリスト教信仰から見て、特に大切にしたい2つのことを考えさせられました。

 一つはいのちの平等性ということ。わたしたちはすべてのいのちは神から来たものだと信じています。だからどんないのちも同じようにとうとい。胎児のいのちは誕生した後の赤ちゃんのいのちよりも軽いということはない。障がいのある人のいのちは障がいのない人のいのちより価値がないということはない。どこの国の人とか、どの民族とかで人のいのちの価値に違いはない。それはどうしても大切にしたいことです。たとえ犯罪者のいのちであっても、抹殺にしてしまえばいい、というものではない。この点は譲れないということを強く感じさせられました。どんな人も例外なく、一人一人の人間にかけがえのない尊厳がある。この点を問い続けていくことは、日本のキリスト者の使命だといってもいいと思います。

 もう一つ、いのちというのは孤立した肉体の中にあるいのちだけがいのちではなく、神とのつながりの中にある、ということです。わたしたちのいのちは神から来て、最終的に神に帰っていくいのちなのだとわたしたちは信じています。だからいのちについて考えるとき、誕生から肉体の死までの時間と空間の中に限定されたいのちだけを考えないのです。
 きょうの福音でイエスはそういういのちについて語っています。
 25節。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
 同じいのちという言葉を使いながら、一方では、この肉体的な生命のことを言います。それを守ろうとして、それだけを見ていたら、神とのつながりの中にあるもっと豊かないのちを見失うということでしょう。イエスの十字架は、肉体の中にあるいのちを捨て、もっと豊かなつながりの中に生きることでした。わたしたちにも同じ道を歩むよう、今日の福音は呼びかけています。なぜなら、あのイエスの十字架の道こそが、本当の意味で神とのつながり、そして、人とのつながりを生きる道だったからです。

 聖書のイメージでは一粒の麦のイメージがわかりやすいと思います。ヨハネ12章24節にあります。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
 麦が自分の殻に閉じこもって、必死に自分が自分であることを守ろうとしたら、そこにいのちはありません。そうではなく、地に落ちてある意味で死ぬ。土から水分や栄養を取り入れて、自分を壊して、そこでいのちはもっと豊かないのちになっていく。そんなイメージ。つながりの中にあるいのちのイメージ。これを大切にしたいのです。

 今日は「被造物を大切にする世界祈願日」という日にあたっています。フランシスコ教皇は2015年に『ラウダート・シ』という回勅を発表して、「すべての造られたものがともに暮らす家である地球を大切にしよう」と呼びかけました。そして、このことを考える日として9月1日に定めましたが、日本では関東大震災の日で防災の日でもあり、むしろ日曜日にしたほうが、教会で一緒に考え祈ることができるというので、日本だけ、9月の第一日曜日になりました。
 教皇が『ラウダート・シ』の中で特に強調しているのは「integral ecology」という考えです。「総合的なエコロジー」と日本語で訳していますが、環境の問題はいわゆる環境だけの問題ではない。貧しい人の問題、戦争と平和の問題、生まれる前の胎児のいのちの尊重という問題、すべてはつながっている、というのです。これがintegral ecologyです。「環境」と言ってしまうとわたしたちとわたしたちを取り囲む環境は別のものですが、わたしたちと私たち以外のすべてのいのちの住んでいるこの地球という感覚を持とうとしています。「共に住む家である地球を大切に」というのはそのこと。

 「すべてはつながっている」ということをフランシスコ教皇は強調しますが、いのちはすべてつながっているという感覚をわたしたちは大切にしたい。
 わたしのいのちはわたしのいのちだけで、ポツンと存在しているのではない。地球のさまざまな生物のいのちとつながっている、貧しい人のいのちともつながっている。他の宗教の人、他の国の人、他の民族の人、全部つながっている。病人や高齢者や子どもたちも。そのいのちのつながりを生きることがわたしたちの大きな課題です。
 そう考えているうちに、でもこれはキリスト教だけのことではないのかもしれないと思いました。いのちがつながっているという感覚。仏教でも神道でも、あるいはアメリカやオセアニアの先住民でもそういう感覚がありました。いつのまにか人類はそれを忘れて、自分のこと、自分のまわりのこと、目先の損得、そんなことばかりに目が向くようになってしまった。
 「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」このイエスの呼びかけを精一杯受け取りたいと思います。


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