毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第23主日のミサ





先週はまた九州でした。
上の写真は26聖人殉教の地、西坂の丘。その裏の山の上に黙想の家があります。
下の写真は聖母の騎士修道院の隣の本河内教会にある聖マキシミリアノ・コルベ神父の肖像画です。

●年間第23主日
 聖書箇所:エゼキエル33・7-9/ローマ13・8-10/マタイ18・15-20
            2017.9.10カトリック原町教会
 ホミリア
 一週間、長崎に行ってきました。コンベンツァル聖フランシスコ修道会という男子の修道会の黙想会の講師を務めさせていただきました。長崎の街と港を見下ろす立山という山の上にある黙想の家で一週間過ごさせていただきました。地図を見たら、日本26聖人の殉教地西坂の丘に近いので、散歩で行ってみることにしました。黙想の家を出て、すぐに急な階段。お墓の中の階段をどんどん下って行って西坂の殉教地に着きました。まあ帰りはとても歩いては登れない、と思ってタクシーにしました。それくらいの急な山です。あと、長崎でコンベンツァル会といえば、マキシミリアノ・マリア・コルベ神父です。コルベ神父は1930年に日本に来て、長崎に修道院を建て、さまざまな活動をしましたが、1936年ポーランドに帰り、その後、ナチスに捕らえられ、最終的にアウシュビッツに送られました。そこで死刑を言い渡された若い父親の身代わりになることを申し出て、殺されました。1982年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。そのコルベ神父が建てた聖母の騎士という修道院も案内してもらいました。コルベ神父は修道院のある山にルルドの洞窟を作りました。これもかなり階段を上ったところにあります。そこには地下から汲み上げた水が流れ出ています。原爆で有名な永井隆博士がこの水でいやされたという話もありました。

 長崎に行くと日本のカトリックの長い歴史を感じさせられます。
 1549年にフランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝え、教会は発展していきました。1587年、豊臣秀吉の命令で長崎で26人のキリシタン宣教師・修道者・信徒が信仰を理由に処刑されました。それから江戸時代にかけて、おびただしい数の殉教者が出ました。ちなみに今日は「日本205福者殉教者」の記念日です。そのうちの55人は1622年9月10日に、長崎・西坂で処刑されました。「元和の大殉教」といわれる日本の教会史上もっとも大きな殉教事件でした。そして日本の教会は200年以上、一人の司祭もいない中で信仰を守り、受け継ぎ、1865年、大浦天主堂でのプチジャン神父との劇的な出会いをとおして、再び姿を表しました。その後、浦上四番崩れがあり、キリシタン禁制の高札が撤去されたのは1873年のことでした。コルベ神父が日本に来たのは1930年のこと。コルベ神父が去った後も、ゼノ修道士たちによって日本でのコンベンツァル会の活動は続けられ、原爆の後の長崎、そして戦後の日本でさまざまな働きをすることになりました。

 黙想会に参加していたのは、司祭と修道士15人で、半分ぐらいが修道士(ブラザー)でした。こちらのほうではシスターはよくみかけますけれど、ブラザーはあまり見ませんね。その祈りが迫力ありました。「アヴェマリア、恵みに満ちた方・・・」これを15人の男性の声で唱えるので迫力あります。お経のような唱え方に聞こえて最初はびっくりしましたが、一週間一緒に祈っているとわたしも慣れて来ました。棒読みのようにも聞こえるのですが、ずっと祈り続けるためにこういうほうがいいのかとも思いました。
 とにかく祈る、これが長崎の信仰。その祈りに少しですが触れさせていただきました。

 今日の福音で、イエスは言います。
 「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」
 本当なのだろうか、と誰でも思いますよね。「祈っても祈っても、ひどいことばかりじゃないか」と思いたくなることがたくさんあるからです。
 それでも長崎のカトリック信者は祈ることをやめません。たくさんの殉教がありました。長い迫害と潜伏の時代がありました。原爆の大きな犠牲がありました。それでも祈り続けるのが長崎の信仰なのだと感じています。
 それは、祈らなければ、神とのつながりがなくなる、ということなのではないかとわたしは思っています。神とのつながりを見失えば、人間の力がすべてという世界になってしまいます。いつのまにか、人間はそれが(人間の力がすべて、ということが)当たり前だと思うようになってしまいました。でも本当はその世界で人間は生きることができません。人間にはどうしようもない限界があるからです。人間の力を超えた大きな力に支えられ、守られなければ、わたしたちは生きることができない。だから人間は祈るのです。これはキリスト信者だけのことではないでしょう。

 祈りはたとえどんな時でも、神とつながっているために、またイエスやマリアとつながっているために必要なことなのです。いいことがあれば、それはイエスさま、マリアさまと一緒に賛美と感謝の祈りになるでしょう。辛いことがあれば、それはイエスやマリアと一緒にゲッセマネの祈り、十字架の祈りになるでしょう。とにかく祈るのです。
 どんな時も祈り続けなさい。それが今日のイエスの呼びかけだと思います。祈らない理由を見つけようと思ったら、いくらでも見つかるかもしれません。祈るよりも愛の行いの方が大切、祈るよりもこれをしなければ、とか、理屈でいえば確かにそのとおりです。でも祈りはやはり理屈ではない。「それでも祈りなさい。一人で祈ることも大切だけれど、二人、三人で一緒にいるときも祈りなさい。そのとき、わたしはあなたと一緒にいる。」それが今日のイエスの約束です。
 このイエスの約束を深く心に刻んで、祈り続けたいと思います。


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