毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第26主日のミサ



晴天に恵まれたさゆり幼稚園の運動会。写真はエンディングの「てとて」です。

●年間第26主日
 聖書箇所:エゼキエル18・25-28/フィリピ2・1-11/マタイ21・28-32
    2017.10.1カトリック原町教会にて
 ホミリア
 原町教会の隣のさゆり幼稚園で運動会がありました。招待されたのでずっと見させていただき、いろいろと考えさせられました。幼稚園に入るまで、一人一人の子どもは家で親の愛を一身に受けてきたのでしょう。兄弟の間ではケンカなどあるかもしれませんが、でもまあ親の愛の中で無条件に肯定されて生きてきてきたのではないか。それが幼稚園に入って、少しずつ集団行動や競争を学ぶのですね。運動会の種目はほとんど集団行動と競争から成り立っていました。そのことにわたしは最初、ちょっと引っかかりました。なぜみんなと同じ行動を取らなければならないのか。なぜ競争で勝たなければならないのか。そんな必要はないんじゃないか。

 実はそう思った理由として、わたしの姪の子どものことがあります。男の子で今3歳になりますが、2歳のときに、自閉症スペクトラムと診断されました。新しい診断名です。わたしは大学生のことから知的障害の子どもと関わっていて、当時も自閉症の子どもがいました。当時、自閉症は知的障害の一つに分類されていました。ところが自閉的傾向が強くても知的能力は低くない人もいて、そういう人はアスペルガーとか呼ばれるようになりました。でもそうやってそれぞれの障害に別の名前を付けるよりも、自閉度と知的障害の度合いを「連続体」として考えたほうがよいということになり、自閉症スペクトラムという言葉が使われるようになってきたのです。
 姪の子どもは、目が合わない、言葉が遅い、こだわりが強いというようなことがあって、集団行動は苦手ですし、競争心なんていうものからは程遠いようです。わたしの姪は最近になって、その子どものことを書くブログを始めました。タイトルは「愛する我が子は自閉症〜発達障害ですが何か?〜」っていうのです。姪夫婦は子どもに障害があると分かった時、もちろんショックを受けました。でも今では、そのことをみんなに知ってもらい、みんなの理解と協力を受けながら、この子と一緒に幸せに生きていきたい。そういう思いでブログを書いています。

 そういう観点から言うと、別に集団行動できなくても、競争に勝たなくてもいいじゃないか、と思ってしまうのです。さゆり幼稚園の運動会でも、発達障害と分かる子どもが一人いて、どうしてもその子のほうに目が行ってしまいました。いつも先生が付いていて、それでもその子はほとんど他のこと同じようにはできない、というよりしないのです。
 終わりのほうに「組体操」がありました。二人、三人、それ以上の人数で、一緒に組んでポーズを決めるやつです。「いや、あの子には無理。お願いだから無理させないで」と思って見ていると、もちろんできない部分はあるのですが、その子なりに、精一杯やっている。いくつかのポーズはちゃんとできているのです。本当にその子が一生懸命やっているのがわかりました。その姿に感動しました。
 そして運動会の最後、白組も赤組も関係なく、全員に金メダルが渡されました。
 それを見て、わたしは、「これって神の国ではないか」と思ったのです。

 今日の福音は、二人の息子のたとえ話です。言うだけで実行しないのと、言わないけど実行するのとどちらがいいか、という道徳的な話に聞こえるかもしれません。でも本当のテーマは神の国への招きにどう答えるか、ということのようです。
 「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。」
 民の指導者たちは、洗礼者ヨハネをとおしての神からの招きに答えなかった、とイエスは言います。どういうことでしょうか。洗礼者ヨハネの呼びかけは、マタイ福音書によれば、「悔い改めよ、天の国は近づいた」というものでした。イエスの呼びかけとまったく同じ、神の国への招きなのです。「今、回心し、神に心を向けなさい。そのしるしとして洗礼を受けないさい。神の国はすぐそこにあるのだから」、ヨハネはすべての人にそう呼びかけました。その呼びかけは、当時、罪びとというレッテルを貼られ、神の救いから程遠いと思われていた人々には、希望になったのです。どんな罪びとであっても今、心から神に向かっていけばいいのだ。

 洗礼者ヨハネが具体的に何を勧めたか、ルカ福音書3章はこう伝えています。
 「群衆は、『では、わたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねた。ヨハネは、『下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ』と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、『先生、わたしたちはどうすればよいのですか』と言った。ヨハネは、『規定以上のものは取り立てるな』と言った。兵士も、『このわたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねた。ヨハネは、『だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ』と言った。」
 全財産を放棄せよとか、今の仕事を辞めてしまえ、と言わないのです。今、神に心を向け、精一杯、神の心にかなうことを求めて生きなさい。そこに神の国がある。この神の国にはすべての人が招かれているのです。

 しかし、当時の社会のエリートたちにとっては、それは受け入れがたいことでした。自分たちにはこれだけ律法について知識があり、これだけ努力して律法を守っている。その優越感が彼らを支えていました。結局、人と人との比較の世界です。競争の世界です。自分たちはそこで勝っているはずだと思っていた人たちは、この洗礼者ヨハネのメッセージを受け入れませんでしたし、イエスのメッセージも結局、受け入れませんでした。
 それは「みんなが金メダルじゃつまらない。わたしだけ金メダルをもらいたい」という考えです。わたしたち大人はそう考える傾向がありますね。でも、幼稚園の子どもはみんな金メダルをもらってうれしそうでした。

 集団行動ができたほうがいいのです。競争に勝つように努力することも大切なことです。人間が大きく成長するために、そして社会の中で生きていくために、それは必要なことです。わたしたちは幼稚園のころからそのことを学んでいかなければならない。でも、それがすべてではない。神はご自分の国にすべての人を招いていてくださっている。人間は大きな神の愛の中で生きている。そこでは本当に一人一人がどんな人もかけがえのない神の子なのです。「皆に金メダルを与えたい」、その神の心を忘れないようにしたいと思います。


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