毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第27主日のミサ



国道115号線で福島に向かう途中、伊達市霊山にある「牧場のジャージー」でとてもおいしいソフトクリームを食べました。ここは片平ジャージー自然牧場の直営店です。牧場主の片平芳夫さんは、今年の3月15日、カトリック原町教会でお話しくださり、山の自然を破壊して進められているメガソーラー発電の問題点を強く訴えておられました。

●年間第27主日
 イザヤ5・1-7/フィリピ4・6-9/マタイ21・33-43
   カトリック原町教会
 ホミリア
 ぶどう園の農夫のたとえ話。主人がすべてを整え、主人から貸し与えられたぶどう園だったのに、収穫の分け前を受け取りに来る主人のしもべを追い払い、最後はその息子まで殺してしまう。とんでもない農夫たちの話です。何が彼らの問題でしょうか。
 無償で恵みとして与えられたものを、あたかも自分の力で手にいれたものと思い込み、貸し与えられて管理を任されているに過ぎないものも、あたかも自分の所有物と思い込む。
 はっきり言って、この問題です。
 そしてそれはわたしたち自身の問題でもあります。

 第一に思いつく一つのことは自然環境の問題かもしれません。自然環境はわたしたちが作り出したものではありません。恵みとして与えられているもの。それを人類は好きにして良いと考え、浪費してしまっている。経済原理、競争原理の中で、森をなくし、山を削り、海を汚し、空気を汚してしまう。
 フランシスコ教皇は、回勅『ラウダート・シ』の中でこう述べています。
 「生産が増大してさえいれば、それが未来の資源や健やかな環境を犠牲にしていることには、少ししか関心が向けられません。森林伐採が生産を増大させているならば、土地の砂漠化や生物多様性の損傷や汚染の増大に伴う損失を計算する人はいません。一言でいうと、ビジネスは、関連コストのほんの一部だけを計算して支払うことによって利益を得るのです」(195)
 その中で自然環境が犠牲になっているというのです。失われるものがいかに多くても、それは費用として計算されない、だから問題にされない。たとえば原発事故でどれだけの損害が出たか、いろいろ計算があるでしょうが、広大な山林の放射能汚染は計算されません。現実的に除染が不可能なのでコストの計算ができないのです。それでもまだ原発はコストが安いという!信じられません。
 わたしたちのまわりにある豊かな自然は、本当は神から与えられ、次の世代に引き継いでいくもの。最終的に神に返していくべきもの。それを今の世代で使い果たしてしまおう、という勢い。この環境やエネルギーの問題を考えると、今のわたしたちの姿は、ぶどう園の農夫たちの姿とだぶって見えてきます。

 「無償で恵みとして与えられたものを、あたかも自分の力で手にいれたものと思い込み、貸し与えられて管理を任されているに過ぎないものも、あたかも自分の所有物と思い込む。」
 それはお金のことかもしれません。「お金は自分が働いて正当に得たものだ、だから正当に自分が所有していて、自分の好きに使っていいはずだ」というのが今の社会では当たり前の考えでしょう。しかしカトリック教会の教えではそうではないのです。
 「神は、地とそこにあるあらゆる物を、すべての人、すべての民の使用に供したのであり、したがって造られた富は、愛を伴う正義に導かれて、公正にすべての人に行き渡るはずのものである。」「人間は、富の使用に際して、自分が正当に所有している富も単に自分のものとしてだけでなく、共同のもの、すなわち富が自分だけでなく他人にも役立ちうるという意味において共同のものであると考えなければならない。」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』69)
 「連帯は、所有物の社会的役割を知り、財は万民のためにあるという原理が私的所有よりも優先される現実であることを知る者の自然な反応です。財の私的所有は、財を保持し増やすことが、共通善に対するよりよい奉仕へと向かうことにおいて正当化されます。」フランシスコ教皇使徒的勧告『福音の喜び』189)
 財産の私的所有は認められるけれど、それよりも「財は万民のためにある」というほうが優先されるというのです。神の望みはすべての人が神の子としての尊厳をもって生きること、富はそのための手段であり、そのために富を用いなければならないのです。財産やお金というものは、いわば神からの預かりものなのです。自分だけでなくすべての人が幸せに生きることができるための預かりもの。それを忘れないようにと、教会はいつも警告しています。

 「無償で恵みとして与えられたものを、あたかも自分の力で手にいれたものと思い込み、貸し与えられて管理を任されているに過ぎないものも、あたかも自分の所有物と思い込む。」
 これはまた、自分の人生のことかもしれません。
 「自分の人生は自分のもの。自分の人生を自分の生きたいように生きて何が悪い?」
 今の社会ではやはりこういう考えが一般的かもしれません。
 でもわたしたちの信仰では違います。わたしのいのちは神からのもの。最後は神に返すべきもの。自分の人生は自分の所有物ではない。自分の人生は神の所有物。ほんとうにそういう思いで生きているか。
 厳しいことを言っているように聞こえますか?
 でも本当の幸せの秘訣はここにあります。人生は日常の小さなことの積み重ねです。その人生を自分の所有物だと思ってしがみつき、神にも誰にも指一本触れさせない、という生き方で生きるか、それとも、神様のために、また家族や周りの人のために尽くす人生として生きるか、それは大きな違いです。感謝と賛美の生活、愛と信頼の生活がここから始まるのです。
 わたしたちが日々、喜びをもって神のぶどう園で働き、すべてを神にお返ししていく生き方をしていくことができるよう、このミサをとおして恵みを祈りましょう。


PageTop